ヨーロッパの歴史風景 中世編




西暦1066年、イングランド南部ペヴェンシーの海岸にノルマンディー公ウィリアムが上陸。イングランドの征服王となった。(イギリス)


イングランドの征服王ウィリアム1世の眠るノルマンディーのカーン

フランスの首都パリから列車で日帰りも出来るフランス北部ノルマンディーの街カーン。そのカーンにあるサン・エティエンヌ(聖エティエンヌ)教会が下の画像なんだ。

フランス北部ノルマンディーのカーンにあるサン・(聖)エティエンヌ教会にイングランドの征服王ウィリアム1世は眠る

このページの主役は、このサン・エティエンヌ(聖エティエンヌ)教会に眠るイングランドの征服王ウィリアム1世。でも、このカーンの教会においては、ノルマンディー公ウィリアム(ギョーム)と書くべきかな。

ノルマンディー公ウィリアム(ギョーム)から
イングランドの征服王ウィリアム1世に

ノルマンディー公ウィリアム(フランスではギョーム)は、西暦1027年に生まれた。父ロベール1世はノルマンディー公だった。と書けば、苦労知らずの御曹司みたいだけど、西暦1035年に父が亡くなり、8歳のウィリアムがノルマンディー公になっている。

そんな幼いノルマンディー公の下で、家臣たちはちょいと好き放題をしていたみたい。西暦1047年に反抗的な家臣たちを戦いで打ち破り、ようやくノルマンディー公としての実権を確立したんだそうな。

西暦1052年にはノルマンディー公ウィリアムはイングランドに上陸している。と言っても、戦いをしに行ったわけじゃない。ウィリアムの大叔母の息子のエドワードがイングランド王(最後のアングロ・サクソン系イングランド王エドワード懺悔王)になっていたから、親戚として挨拶に行ったみたい。でも、その際にエドワード懺悔王はウィリアムにイングランド王位の継承を約束した ・・・ という話もある。

西暦1064年には、イングランド王エドワード懺悔王の親戚のハロルドが乗っていた船が遭難し、ウィリアムの領地であるノルマンディーに上陸した。ノルマンディー公ウィリアムは、親戚の親戚であるハロルドを歓迎。ハロルドはウィリアムに対して臣下の礼をとり、もしイングランド王位をウィリアムが継承した場合には支持すると約束した ・・・ らしい。

そして西暦1066年1月、最後のアングロ・サクソン系イングランド王エドワード懺悔王が亡くなった。約束では次のイングランド王はウィリアムになるはずだった。が、あの親戚の親戚でウィリアム支持を約束したハロルドがイングランド王位を継承したと ・・・ 。

ノルマンディー公ウィリアムは自らイングランドに乗り込む為に準備を始めた。夏になり、いよいよノルマンディーから対岸のイングランドに向けて出航しようという時、逆風が続いてウィリアムの軍は一ヶ月以上も待たされることになってしまったんだ。

征服王ウィリアム1世の軍がイングランド南部ペヴェンシーに上陸

イングランドへの出航が大幅に遅れてしまったノルマンディー公ウィリアムの軍。その間にもハロルドがイングランド支配を確立してしまうかもしれない。そんな心配をしていたかもしれないウィリアムが上陸したのは、下の画像にあるイングランド南部の海辺ペヴェンシーだった。

ノルマンディー公ウィリアムが上陸したイングランド南部ペヴェンシーの海岸(イギリス)

ウィリアム軍のペヴェンシー上陸の時点で既に9月28日になっていた。その間に実は重大な事件がイングランドで起こっていた。イングランド王位を主張するノルウェー王ハロルド・ハルドラーダ(ハーラル3世)がイングランド北部に上陸し、イングランド王ハロルド(2世)と戦っていたんだ。

そのスタンフォード・ブリッジの戦いで、ノルウェー軍は壊滅していた。しかし、イングランド王ハロルド(2世)の軍も手痛い損害を蒙っていた。しかも、上陸したノルマンディー公ウィリアムの軍を迎え撃つ為には、イングランド南部まで長距離を移動する必要もあった。ウィリアムの出航を一ヶ月以上も遅らせた逆風は、実はウィリアムにとっては神風だったのかもしれないね。

ヘイスティングスの戦いと
イングランド王ウィリアム1世(征服王)の戴冠

イングランド北部での戦いでノルウェー王の軍を打ち破ったイングランド王ハロルド(2世)は、急いで南下したものの、ようやく10月6日に首都ロンドンに到着した。でも、彼に追いつくことの出来ない軍勢も少なくなかったらしい。それでも、ノルマンディー公ウィリアムの軍を迎え撃つ為に、一部の兵のみを率いてイングランド王ハロルド(2世)は南下して行った。

イングランド王ハロルド(2世)の軍とノルマンディー公ウィリアムの軍との激突、いわゆるヘイスティングスの戦いは、西暦1066年10月14日に起こっている。不利な状況にあったハロルド軍は善戦し、ウィリアム軍を苦戦させていた。でも、長い一日が終わった時には、イングランド王ハロルドは戦死していた。

イングランド軍のかなりの部分がヘイスティングスに間に合わなかった。ということは、逆に言えば、少なからずイングランドの貴族が生き残っていた。対して、ノルマンディー公ウィリアムの兵はさほど多くはなかった。

イギリスの首都ロンドンにあるウェストミンスター寺院 というわけで、ウィリアムは首都ロンドンを戦いによって占領するつもりはなかった。あくまでもウィリアムは正当なイングランド王エドワード懺悔王から合法的に王位を継承するという立場を貫くつもりだった。

彼は軍を率いてロンドンに郊外をゆっくりと進軍していた。そんな彼のもとに首都ロンドンから使者が到着した。

そしてその年の暮れ、西暦1066年のクリスマス、イングランド王家の伝統あるウェストミンスター寺院(右の画像)においてイングランド王ウィリアム1世(征服王)の戴冠式が行われた。

但し、イングランド王としてのウィリアム1世の立場はまだまだ確立されてはいなかった。彼の兵は少なく、アングロ・サクソン系およびヴァイキング系の貴族は各地で力を保っていた。イングランド王ウィリアム1世が本当の意味で「征服王」となるのは、まだ先のことだったと言えるんだろうね。

ノルマンディー公とモン・サン・ミシェル

ついでの話。歴代のノルマンディー公は、今の世界遺産 モン・サン・ミシェルの修道院を財政的に支援していたらしい。その支援を得て、ラ・メルヴェイユ(驚異)とも称されるゴシック様式の大修道院が築かれたわけだね。

そんな関係もあって、モン・サン・ミシェルの修道院はノルマン・コンクエストを支持していた。そしてイングランドに所領を与えられた。その所領の中には、イギリス南西部のコーンウォールにあるセント・マイケルズ・マウント(フランス語ならばモン・サン・ミシェル)も含まれていた。その島にも修道院が建てられたんだそうな。

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