ヨーロッパの歴史風景 中世編




西暦1103年、スコラ哲学の父と呼ばれる聖アンセルムスがイングランドから追放された。


スコラ哲学の父とされた聖アンセルムス

カンタベリー大聖堂のステンド・グラスに描かれた聖アンセルムス(イングランド、イギリス) 後に聖人とされたアンセルムスは、西暦1033年にイタリア北部(フランスとスイスとの国境近く)で生まれた。両親共に貴族の出身だった。アンセルムスは信仰の道に進むことを希望したものの父に反対され、やがて家を出たんだそうな。

さまようアンセルムスの耳に聞こえてきたのは、フランス北部ノルマンディーの修道士ランフランクの名声だった。そしてアンセルムスはノルマンディーのランフランクのいる修道院に入った。

ノルマンディーの修道院に入ったアンセルムスは、裕福な貴族の家に生まれて施された教育の成果を稔らせ、神学の世界で名を上げていった。アンセルムスは神学についてのいくつもの論文を発表したんだそうな。右の画像は、イングランド南部のカンタベリー大聖堂のステンド・グラスに見る聖アンセルムスの姿なんだ。

他方で、西暦1070年にはアンセルムスの師だったランフランクがイングランドのカンタベリー大聖堂の大司教となった。イングランドの征服王ウィリアム1世の求めによるものだった。

ウィリアム1世がイングランド王となる前、単にノルマンディー公だった頃から、ランフランクとは旧知の仲だった。

カンタベリー大聖堂はイングランドのキリスト教の頂点

ランフランクが大司教となったカンタベリーの大聖堂(下の画像)は、イングランドのキリスト教組織の頂点にあった。

カンタベリー大聖堂(イングランド、イギリス)

ローマ教皇の命によってイングランドに来た聖アウグスティヌスも、西暦597年にカンタベリーで布教活動を始めた。そんな聖アウグスティヌスはカンタベリーにアウグスティヌス修道院を建て、また初代カンタベリー大司教になったんだそうな。

聖アンセルムスとイングランドとカンタベリー

そんな重要なカンタベリー大聖堂の大司教となったランフランクは、時に対立しながらも征服王ウィリアム1世のイングランド統治を支援したらしい。

他方で、ノルマンディーで修道院の院長となっていたアンセルムスは、時には師匠ともいうべきランフランクと会うべくイングランドのカンタベリーに赴き、時には旧知の関係でノルマンディーの修道院の支援者であるイングランド征服王ウィリアム1世に会いに来ていたんだそうな。

しばしばイングランドに来ていたアンセルムス、神学の権威として既に名を上げていたアンセルムスを、イングランドの人々はカンタベリー大司教ランフランクの後継者として見ていたらしい。

聖アンセルムスとイングランド王ウィリアム2世

カンタベリー大聖堂のステンド・グラスに描かれたウィリアム2世(イングランド、イギリス) イングランドの征服王ウィリアム1世が亡くなったのは、西暦1087年のことだった。イングランド王位を継承したのは、息子のウィリアム2世だった。(右の画像は、カンタベリー大聖堂のステンド・グラスに見るウィリアム2世の姿。)

次いで、西暦1089年には、カンタベリー大聖堂の大司教ランフランクが亡くなった。でも、イングランドの人々の期待に反し、イングランド王ウィリアム2世は大司教の後任を定めなかったんだそうな。王は大司教の財産を流用する為に、後任の大司教がいない方が好都合だったらしい。

そして西暦1093年、イングランド王ウィリアム2世が重病に陥った。死期が近づいたかと思われたウィリアム2世は、神の裁きを惧れ、とうとうカンタベリー大司教にアンセルムスを求めたんだそうな。その前年からイングランドに滞在していたアンセルムスは、こうしてカンタベリーの大司教となったわけだ。

ところが、重病に陥っていたイングランド王ウィリアム2世は健康を回復したらしい。ウィリアム2世は、大司教となったアンセルムスに財産を要求した。スコラ哲学の権威である大司教アンセルムスが王の求めに応じるはずもない。加えて、イングランド国内の司教などを任命する権限を持つのは誰かという点についても、両者は意見が異なっていた。そんなわけだ、カンタベリー大司教アンセルムスとイングランド王ウィリアム2世との対立が続いたんだそうな。

そして西暦1097年、アンセルムスは大司教叙任の手続きの為に、ウィリアム2世の許しを得ずにローマに赴いた。その機を逃すことなく、ウィリアム2世は大司教の資産を差し押さえ、他方で大司教アンセルムスのイングランドへの帰国を許さなかったらしい。

聖アンセルムスとイングランド王ヘンリー1世

カンタベリー大聖堂のステンド・グラスに描かれたヘンリー1世(イングランド、イギリス) カンタベリー大司教アンセルムスのイングランドへの帰国を認めなかった王ウィリアム2世。ところが、西暦1100年、そのウィリアム2世が亡くなった。神のお裁きによるものか、・・・。

イングランド王位を継承したのは、末弟のヘンリー1世だった。(右の画像は、カンタベリー大聖堂のステンド・グラスに見るヘンリー1世。)

ところが、その王位継承は長兄のロベールがイングランドを留守にしていたことにつけこんだものだった。そんな王位継承を教会によって認めてもらう為に、イングランド王ヘンリー1世はカンタベリー大司教アンセルムスの帰国を求めた。

その結果、3年ぶりにカンタベリー大司教アンセルムスがイングランドに戻ることが出来た。ところが、先王と同様に、ヘンリー1世とアンセルムスとの間でも聖職者の叙任権をめぐって対立が生じてしまった。

その結果、西暦1103年にカンタベリー大司教アンセルムスはイングランドから追放されたんだそうな。そんな両者の間に妥協が成立し、和解に至ったのは西暦1107年のことだった。そしてカンタベリー大司教アンセルムスがイングランドに戻ったものの、その2年後の西暦1109年にはアンセルムスは亡くなってしまったんだ。

そして西暦1494年、ローマ教皇によってアンセルムスは聖別され、聖人となったわけだ。しかし、イングランドにおいて王権とキリスト教の教会との間には折々に波風が立ち続けたんだ。西暦1170年にはカンタベリー大聖堂において大司教トマス・ベケットが殺害されている。更には16世紀にはあのヘンリー8世によってイギリスのキリスト教がローマ教皇庁から決別させられるに至るわけだ。

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