戦いの舞台となった14世紀のトスカナ1999年6月、私はイタリアのエミリア・ロマーニャ地方からトスカナ地方へと旅をしていた。そしてイタリアの古都フィレンツェからシエナへと向かう列車の中から撮影したのが、下の画像なんだ。青空が広がるのどかな風景だよねえ。
ところが、14世紀のイタリア、中でもトスカナ地方は、フィレンツェ、シエナ、ピサなどに加えて、ミラノやローマ教皇庁などが互いに争う戦いの舞台でもあったんだ。その名残りが、上の画像に写っている丘の上の古城かな。 騎士ジョン・ホークウッドと百年戦争
そんな中世イタリアの戦争の主役といえば、悪名高い傭兵部隊だった。そんな荒くれ兵たちを率いる傭兵隊長の中でも、当時最強と称賛されていたのがジョン・ホークウッド(イタリアでは、ジョヴァンニ・アクートと呼ばれていた)だった。(右の画像は、パオロ・ウッチェロの描いた「ジョン・ホークウッド騎馬像」。)ジョン・ホークウッドは西暦1320年にイングランド(イギリス)で生まれた。革なめし職人の息子だった。その革なめし職人だった父が亡くなると、ジョン・ホークウッドは遺産を売り払って武具を買い、イングランド軍の兵隊となった。 イングランド王エドワード3世指揮下のイングランド軍の一員として海を渡ったジョン・ホークウッドは、イングランドとフランスとの間の百年戦争に参加。やがて、ポワティエの戦いでの活躍により、騎士に叙せられる。ところが、イングランドとフランスとの間に束の間の和平が成立し、騎士ジョン・ホークウッドの活躍の場は無くなってしまった。 イタリア最強の傭兵隊長ジョン・ホークウッド西暦1361年(あるいは1362年)、騎士ジョン・ホークウッドは100人ほどの部下を従えて、都市国家同士が争っていたイタリアへ渡ってきた。そこで彼はドイツ人傭兵隊長アルブレヒト・ステルツの傭兵部隊に参加した。やがて、有能な指揮官ぶりを発揮したジョン・ホークウッドは、アルブレヒト・ステルツに次ぐ地位にのしあがる。それどころか、部下たちの支持を得たジョン・ホークウッドはアルブレヒト・ステルツを追い出し、自分が傭兵部隊の指揮官となったんだ。 それから、傭兵隊長ジョン・ホークウッドは中世イタリアを舞台に縦横無尽の戦いを続ける。ピサに雇われてフィレンツェと戦ったかと思えば、次にミラノに雇われてフィレンツェやピサと戦う。立場を換えてローマ教皇に雇わたかと思えば、再びミラノ。 フィレンツェ軍司令官ジョン・ホークウッド百年戦争で練り上げられたイングランド軍の戦術を駆使する傭兵隊長ジョン・ホークウッドには、いくつもの都市国家が誘いをかけていた。そして西暦1377年、傭兵隊長ジョン・ホークウッドは軍司令官としてイタリアの古都フィレンツェに迎えられたんだ。フィレンツェ軍の司令官として各地で戦った傭兵隊長ジョン・ホークウッドなんだけど、西暦1390年には優勢を誇るミラノ軍に敗れた。既に70歳となっていたジョン・ホークウッドも敗戦のショックが大きかったのか、戦いの日々に疲れたのか、故郷のイングランドへ帰りたくなっちゃったんだそうな。 そして西暦1394年、帰国を目前にしたジョン・ホークウッドを襲ったのは病魔だった。亡くなった傭兵隊長ジョン・ホークウッドの葬儀は、フィレンツェの中心ともいえるドゥオモ(花の聖母マリア大聖堂)で行われたんだそうな。(下の画像はジョン・ホークウッドの葬儀が行われたフィレンツェのドゥオモの内部。)
パオロ・ウッチェロによるジョン・ホークウッド騎馬像葬儀の後、傭兵隊長ジョン・ホークウッドの亡骸はフィレンツェのドゥオモ(花の聖母マリア大聖堂)に葬られたんだそうな。ところが、後に彼の亡骸は故国イングランドに送られたらしい。
その代わりなのかどうか、ドゥオモ内部の壁にはパオロ・ウッチェロによってフレスコ画「ジョン・ホークウッド騎馬像」が描かれた。それが上から二つ目の画像なんだ。西暦1436年の作品なんだそうな。ちなみに、フィレンツェのドゥオモでは、他にもパオロ・ウッチェロの作品を見ることが出来る。それが右の画像にある時計。西暦1443年に制作されたらしい。現在の時計とは逆の向きに回るみたいだね。しかも、24時間表示だ。今でも時を刻んでいると資料に書いてあったよ。
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