ヨーロッパの歴史風景 中世編




西暦1462年、イタリアの古都フィレンツェの名門ストロッツィ家が、対立していたメディチ家と和解した。


フィレンツェから追放されたストロッツィ家の帰還

西暦1433年、メディチ家の当主コジモ・デ・メディチ(名高い国父コジモ)がイタリアの古都フィレンツェから追放された。ところが、彼は翌年には追放を解かれている。同時に彼の追放に関与した人々が追放されてしまった。名門ストロッツィ家も追放されたんだけど、その中には6歳になったばかりのフィリッポ(1世)・ストロッツィも含まれていた。

フィリッポ(1世)・ストロッツィはナポリで育ったらしい。やがて彼は傭兵隊長となり、更には銀行家としても名を成したんだそうな。やがてストロッツィ家は、フィレンツェの実質的な支配者となっていたメディチ家と和解した。フィリッポ(1世)・ストロッツィが生まれ故郷に帰還することを許されたのは、西暦1462年のことだった。

イタリアの古都フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会にあるストロッツィ家の礼拝堂

フィレンツェに戻ったフィリッポ(1世)・ストロッツィは新たに邸宅を建て、またサンタ・マリア・ノヴェッラ教会にストロッツィ家の礼拝堂(上の画像)を築いている。西暦1491年に彼が亡くなった時点では、邸宅も礼拝堂も完成していなかったらしいけどね。

ストロッツィ家のメディチ家との婚礼と戦い

フィリッポ(2世)・ストロッツィは西暦1489年にフィレンツェで生まれた。当初はジャンバティスタと名づけられている。でも、2年後に父親が亡くなったこともあり、あらためて父親の名フィリッポを受け継いだらしい。

そんなフィリッポ(2世)・ストロッツィが西暦1508年に結婚したのは、かつて対立していたメディチ家の令嬢クラリーチェだった。彼女の祖父はメディチ家の黄金時代の当主として名高いロレンツォ・イル・マニフィコ(大ロレンツォ)だった。

その結婚の時点で、メディチ家はフィレンツェから追放されていた。しかし、枢機卿ジョヴァンニ・デ・メディチ(後の教皇レオ10世)の尽力もあり、西暦1512年にメディチ家は復帰に成功している。その帰還後、ストロッツィ家は政治的にも重要な役割を与えられたらしい。

ところが、やがてフィリッポ(2世)・ストロッツィをメディチ家と結び付けていた奥方のクラリーチェが西暦1528年に亡くなり、メディチ家のアレッサンドロ(メディチ家の教皇クレメンス7世の庶子とされる)が西暦1530年に初代フィレンツェ大公となると、ストロッツィ家に対するメディチ家の圧迫が強まってきた。やむなくフィリッポ(2世)はフィレンツェを出てローマに逃れている。

ところが、西暦1537年、初代フィレンツェ大公アレッサンドロ・デ・メディチが暗殺されてしまった。メディチ家の傍流出身のコシモ1世が次の当主として権力を確立しようとしたとき、兵を挙げたのがフィリッポ(2世)・ストロッツィや彼の息子たち、更にはフィレンツェから追放されていた仲間たちだった。

イタリアの古都フィレンツェのバルジェッロ博物館にあるフィレンツェ大公コシモ1世胸像

ところが、戦いにフィリッポ(2世)たちは戦いに敗れ、結局はメディチ家の当主となったコシモ1世が第2代フィレンツェ大公(後にトスカナ大公)として専制的な支配者となっている。(上の画像はフィレンツェのバルジェッロ博物館にあるチェッリーニ作のコシモ1世胸像。シニョーリア広場には彼の騎馬像も立っている。)

敗戦の際に捕えられたフィリッポ(2世)・ストロッツィは城の中の牢獄に放り込まれ、間もなく亡くなっている。敗戦の際に逃れることのできた彼の息子たちは、ヴェネツィアを経てフランスに逃れていった。

シエナを舞台にメディチ家と戦ったストロッツィ家の息子たち

フランスに逃れたフィリッポ(2世)の息子たち、すなわちピエロ・ストロッツィと彼の弟たちが頼ったのは、フランス王アンリ2世の王妃カトリーヌ・ド・メディチだった。

メディチ家の嫡流の令嬢でありながらも、生まれて間もなく両親を亡くした彼女は、クラリーチェ・デ・メディチ(彼女の叔母にしてピエロ・ストロッツィ兄弟の母親)に育てられた。つまり、ストロッツィ家の息子たちはフランス王妃とは子供時代を共に過ごした仲だった。

やがてピエロ・ストロッツィはフランス軍に加わっている。西暦1542年にはイタリアでの銭湯に参加し、西暦1548年からはイングランドと戦うスコットランドを支援するフランス軍の一員として海を渡っている。

イタリアのトスカナ地方の街シエナのカンポ広場

各地を転戦したピエロ・ストロッツィがフランス軍の元帥にまで昇進した西暦1554年、彼はイタリアのトスカナ地方の街シエナの防衛の為に戦場に赴いた。(上の画像はシエナの中心カンポ広場の様子。)

彼が戦場で向かい合ったのは、ストロッツィ家の宿敵メディチ家の当主にして、17年前に彼の父親を敗戦に追いやったフィレンツェ大公コシモ1世だった。ところが、ピエロ・ストロッツィはシエナ防衛戦でも敗れてしまった。

結局、メディチ家のフィレンツェ大公コシモ1世はシエナを征服し、やがて西暦1569年にはトスカナ大公となっている。他方、ストロッツィ家の宿敵を倒すことができなかったピエロ・ストロッツィは、艦隊を率いて参戦していた彼の弟のレオーネ・ストロッツィを戦闘中に失っている。

それでもピエロ・ストロッツィは戦い続けた。西暦1556年には教皇庁の軍の指揮官となっている。西暦1558年にはフランス軍の部隊に従軍し、ロレーヌ地方で戦闘に加わった。彼が戦死したのは、その戦場でのことだった。

オスマン・トルコと戦ったストロッツィ家の軍人

戦死したピエロ・ストロッツィの息子フィリッポ(3世)・ストロッツィもフランス軍の軍人となっていた。ピエモンテ、カレー、スコットランドなどを転戦した彼は、西暦1564年にはハンガリーで戦っている。相手は侵入してきたオスマン・トルコの大軍だった。

その翌年の西暦1565年、彼は地中海に浮かぶマルタ島に渡り、再びオスマン・トルコと戦って勝利を得ている。(下の画像は激戦の舞台となった聖エルモ城砦で見たイン・ガーディアの様子。聖ヨハネ騎士団時代の兵装で行われるアトラクションなんだ。)

マルタ島のヴァレッタにある聖エルモ城砦で見たイン・ガーディアの様子

フランスへ戻った彼は更に戦い続けた。ユグノーと戦い、スペインや神聖ローマ帝国の軍と戦っている。そして、西暦1582年、フランスの艦隊を率いてスペインの艦隊と海戦を行った際に敗れて捕われ、処刑されてしまった。42歳だった。15世紀の前半にフィレンツェから追放されてから150年に渡り、ストロッツィ家の人々は戦い続けてきたんだ。

次のページ



姉妹サイト ヨーロッパ三昧

ヨーロッパ三昧

このサイト「ヨーロッパの歴史風景」の本館が「ヨーロッパ三昧」です。イギリス・フランス・イタリア・スペイン・ギリシャ・トルコ・エジプト・ロシア・アゼルバイジャンなど25国45編の旅行記を掲載しています。こちらも遊びに行ってみてくださいね。

「ヨーロッパ三昧」のトップ・ページのURLは、 http://www.europe-z.com/ です。

Copyright (c) 2015 Tadaaki Kikuyama
All rights reserved
管理・運営 あちこち三昧株式会社
このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。