イタリアの古都フィレンツェのメディチ家イタリアの古都フィレンツェの支配者となったメディチ家の祖先については、あまりはっきりとしたことはわかってはいないらしい。フィレンツェ近郊の農民がフィレンツェに出てきて成功したというのが、歴史家の通説というところかな。いずれにしても、当初のメディチ家は薬屋を営み、やがて銀行家として成功し、古くからのフィレンツェの名家を抑えて支配者にのし上がったというところみたい。 芸術の保護者となった国父コジモ・デ・メディチイタリアの古都フィレンツェといえば、ルネサンス期に多くの芸術家を輩出しているよね。いわばルネサンスの中心となったのがフィレンツェなんだけど、その立役者の一人が国父とも称されたコジモ・デ・メディチかな。銀行家として成功していた国父コジモは、フィレンツェを代表する花の聖母マリア大聖堂(ドゥオモ)などの建物の増改築資金の多くを負担し、また多くの芸術家を保護していたらしい。例えば、ブルネレスキ、フィリッポ・リッピ、ドナテルロなども国父コジモの世話になっていたんだそうな。
上の画像は現在も残るメディチ・リカルディ宮殿にある「東方三博士の礼拝」なんだけど、その制作者であるベノッツォ・ゴッツォーリも国父コジモ・デ・メディチの保護を受けていたんだそうな。 国父コジモ・デ・メディチのフィレンツェ追放
銀行家として成功し、実質的なフィレンツェの支配者に近い地位を築いたコジモ・デ・メディチなんだけど、必ずしも順風満帆の人生を歩んだわけでもない。当然のことながら、新興のメディチ家に対してフィレンツェの旧家は対立的な姿勢を示していた。その結果、西暦1433年には旧家アルビッツィ家の策謀により、国父コジモ・デ・メディチは10年間の国外追放を宣告されているんだ。(右の画像はフィレンツェの政治の中心だったシニョーリア広場横のベッキオ宮殿。) 但し、フィレンツェの民衆に支持されていた国父コジモ・デ・メディチの追放は翌年には解除され、彼はフィレンツェにおける実権を取り戻しているんだけどね。(でも、彼の子孫たちは後に再びフィレンツェから追放されている。) 国父コジモ・デ・メディチの死花の都フィレンツェの実質的な支配者であっても、やがては死を迎えることになる。西暦1464年、国父コジモ・デ・メディチが亡くなり、メディチ家の墓所のあるサン・ロレンツォ教会に葬られている。(下の画像は、サン・ロレンツォ教会にあるメディチ家礼拝堂の八角天井。)
国父コジモの地位を継承したのは、通称「痛風病みのピエロ」ことピエロ・デ・メディチだった。フィレンツェのメディチ家の最盛期を担うロレンツォ・デ・メディチはそのピエロの息子なんだ。 メディチ家の紋章にフランス王家の百合の花国父コジモ・デ・メディチが亡くなった翌年の西暦1465年、フランス王家はそのシンボルである百合の花をメディチ家の紋章に加えることを許したんだ。というのも、銀行家として成功していたコジモ・デ・メディチはフランス王家にも資金を融資し、その財政危機を救っていたからなんだそうな。下の画像は国父コジモの曾孫にあたる法王レオ10世(ジョヴァンニ・デ・メディチ)の紋章なんだけど、薬を示す球に加えてフランス王家のシンボルである百合の花が三つ描かれているのが見えるよね。
ちなみに、上の画像にある法王レオ10世の紋章は、イタリアの首都ローマにあるヴァティカン博物館の中のヘリオドロスの間(ラファエロの作品もある)で見ることが出来るよ。
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