ローマ教皇アレッサンドロ6世(アレクサンデル6世)西暦1492年、スペイン人ロドリーゴ・ボルジアがローマ教皇アレッサンドロ6世(アレクサンデル6世)として即位した。ローマ教皇庁を腐敗させたとも言われるアレッサンドロ6世だけど、ルネッサンス期イタリアの人文主義的な芸術を愛好した人物としても知られている。(ヴァティカン博物館・美術館の「火災の間」に残るラファエロの絵は、アレッサンドロ6世が描かせたもの。)良かれ悪しかれ歴史に名を残した人物ではあるんだけど、彼の名はヴァティカン博物館・美術館(ローマ、イタリア)の中の「ボルジアの間」でも見ることが出来たよ。(下の画像)
ボルジアの間に残るボルジア家の雄牛の紋章下の画像は、ヴァティカン博物館・美術館の「ボルジアの間」の一部である「自由学芸の間」の天井と壁の一角なんだ。人文主義的な学芸を賛美する絵の横にある金の牡牛は、ローマ教皇アレッサンドロ6世の生家ボルジア家の紋章なんだそうな。
ローマ教皇アレッサンドロ6世の死
権謀術数と毒薬を駆使して現世を左右したローマ教皇アレッサンドロ6世だったけど、西暦1503年に病によって亡くなったんだ。右の画像は、亡くなったアレッサンドロ6世の遺骸が安置されていたといわれる場所。ボルジアの間の一角にある。 ローマ教皇の息子 チェーザレ・ボルジアロドリーゴ・ボルジアがローマ教皇に即位した時、その息子のチェーザレ・ボルジアは17歳の学生だった。ところが、父の地位と自分の才覚を利用したチェーザレ・ボルジアはイタリア中部に覇権を確立しようとした。ところが、突如として父のローマ教皇アレッサンドロ6世が病に倒れた。しかも、運悪くチェーザレ・ボルジア自身も病に囚われてしまった。 結局はイタリアにおける全てを失ったチェーザレ・ボルジアは、ナポリ・スペインに幽閉され、その後は妻の兄であるナヴァーラ王の許に身を寄せ、やがて戦いの中に命を失ってしまった。(しかし、彼の娘はフランスの貴族の家に嫁ぎ、その家系は今でも続いているんだそうな。)
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