修道士ジロラーモ・サヴォナローラ
西暦1452年にフェラーラで生まれたジロラーモ・サヴォナローラは、22歳のときにエミリア・ロマーニャの中心都市ボローニャでドメニコ派の修道士となった。その後、西暦1482年にジロラーモ・サヴォナローラはイタリアの古都フィレンツェにあるサン・マルコ修道院に移っている。(右の画像は、現在は美術館となっているかつてのサン・マルコ修道院の中庭。) ちなみに、かつてのサン・マルコ修道院は現在ではサン・マルコ美術館となっているんだけど、そこではフラ・アンジェリコやギルランダイオなどの宗教画を見ることが出来るよ。 修道士サヴォナローラの説教と予言そこまではジロラーモ・サヴォナローラもただの修道士だった。ところが、フィレンツェの中心でもある花の聖母マリア大聖堂(ドゥオモ)においてサヴォナローラは当時の人々の享楽的な生活を非難する説教を行い、それがフィレンツェの人々の支持を集めたんだ。(下の画像は花の聖母マリア大聖堂の祭壇。)
のみならず、修道士ジロラーモ・サヴォナローラは当時のフィレンツェの実質的な支配者だった豪華王ロレンツォ・デ・メディチ(大ロレンツォ)を批判し、神罰としての敵軍の侵攻を予言したんだ。 フランス王シャルル8世の侵攻とメディチ家の追放そして西暦1494年、大軍を率いたフランス王シャルル8世がアルプスを越え、イタリアへ侵攻してきた。当時のフィレンツェを支配していたメディチ家の当主ピエロ・デ・メディチはシャルル8世と外交交渉を行うも、その屈辱的な姿勢はフィレンツェ市民の支持を得ることが出来なかった。結局、メディチ家はフィレンツェから追放され、フィレンツェの実権はシャルル7世との外交交渉に成功した修道士サヴォナローラに委ねることとなったんだ。 サヴォナローラによるフィレンツェ統治と火刑イタリアの古都フィレンツェの実権を握った修道士サヴォナローラは、素朴な神への信仰に基づいた質素な暮らしを人々に求めた。一時はサヴォナローラを支持していたフィレンツェの人々は、あまりに厳しいサヴォナローラの統治に対して次第に反感をつのらせていった。他方で「神の代弁者」を自称したサヴォナローラに対してローマ法王アレクサンデル6世(チェーザレ・ボルジアの父)が反発し、西暦1497年にサヴォナローラを破門したんだ。 そして明けて西暦1494年に修道士サヴォナローラは失脚し、フィレンツェの中心にあるシニョーリア広場で火刑に処されてしまったんだ。(下の画像は作者不詳のサヴォナローラ火刑の図。)
上の画像に写っている絵には、当時のヴェッキオ宮殿の様子も描かれているね。ちなみに、このヴェッキオ宮殿を設計したのは、アルノルフォ・ディ・カンビオ (1245 - 1302) 。但し、その後何度も改築されているから、彼が設計した部分は一部しか残っていないらしいけどね。 現在のシニョーリア広場ついでながら、下の画像は現在のシニョーリア広場の様子。上の画像の絵に描かれているシニョーリア広場と比べて周囲の建物が迫ってきているね。ちなみに、画像右手の赤い傘の向こうにに見えているのがベッキオ宮殿の壁。
シニョーリア広場の中央には、サヴォナローラの火刑の場所を示す石版が埋め込まれているんだ。広場へ行く機会があったら捜してみてね。
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