フランス革命と緊迫するイベリア半島情勢西暦1796年、スペインがフランスの革命政府と同盟を結んだ。その結果、イギリスと結ぶポルトガルと、フランスと結ぶスペインとの対立が深まったんだ。既にかつての力を失っていたポルトガルとすれば、微妙な外交を迫られることとなった。スペインに近づけば、植民地ブラジルをイギリスに奪われるかもしれない。しかし、イギリスに近づけば、スペインの攻撃を受ける心配があったんだ。 隣国スペインは、衰退する帝国ポルトガルにとっては、大きな脅威だった。実際に西暦1801年にはスペイン軍がポルトガルに侵入したこともある。 西暦1806年には、イギリスの経済封鎖を狙うナポレオンが大陸封鎖令を発布。フランス・スペインの圧力を受けたポルトガルも、大陸封鎖令に従わざるを得なかった。 ポルトガル女王のブラジルへの疎開
しかし、西暦1807年には、フランス・スペイン連合軍がポルトガルに侵攻してきた。ナポレオンは、ポルトガルの植民地が欲しかったらしい。ポルトガル女王マリア1世(右の画像)など多くのポルトガル人は、植民地ブラジルへ逃れざるを得なくなった。他方、ポルトガルでは、フランスの将軍ジュノーの軍が、リスボンを占領している。 西暦1808年には、スペインでナポレオンの支配に対する民衆の反対が活発になった。他方、イギリスのアーサー・ウェルズリー卿(後のウェリントン公爵)率いる軍がポルトガルに上陸し、フランス軍を撃ち破った。 続く西暦1809年、更に西暦1810年にも、フランス軍がポルトガルに侵攻。しかし、イギリス軍に敗れて撤退している。 ナポレオン戦争後のポルトガルナポレオン戦争が終わった後の西暦1815年、ブラジルが植民地の地位から昇格し、本国ポルトガルと同格の連合王国の構成国となった。西暦1816年、ポルトガル女王マリア1世が、本国ポルトガルに帰ることなく、ブラジルで死去。新ポルトガル王ジョアン6世は、ブラジルで戴冠式を行った。 西暦1821年、ポルトガル国王ジョアン6世がポルトガルに帰国。しかし、翌年の1822年には王子ドン・ペドロがブラジルの独立を宣言してブラジル皇帝に即位したんだ。 ブラガンサ王家のケルーシュ宮殿ところで、上に掲げたポルトガル女王マリア1世の肖像画なんだけど、彼女の属するポルトガルのブラガンサ王家の人々が愛したケルーシュ宮殿(下の画像)で見つけたもの。
このケルーシュ宮殿は、ヴェルサイユ宮殿を模して、バロック・ロココ様式で建てられた宮殿なんだ。その内部は、ポルトガル独特の青いタイル「アスレージョ」で飾られている。また、フランス式庭園とイタリア式庭園もあって、春にはたくさんの花々が咲いているよ。ポルトガルの首都リスボンからは15kmほどのところにあるんだ。
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