兵士からエジプト太守となったムハンマド・アリー西暦1769年、マケドニアにおいてアルバニア人の息子としてムハンマド・アリーが生まれた。オスマン・トルコ政府の徴募に応じて兵士となったムハンマド・アリーは、直ちに頭角を表し始めた。西暦1798年、ナポレオンがエジプトに遠征。ムハンマド・アリーはアルバニア人部隊を率いて、エジプトで戦った。 ナポレオンがエジプトを離れた後の混乱の中でエジプトに権力を確立したムハンマド・アリーは、西暦1805年にはエジプトの太守(パシャ)となった。 西暦1811年、エジプト全土を完全に支配下に入れたムハンマド・アリーは、オスマン・トルコの宗主権を認めつつも実質的に独立の権力を確立した。 西暦1821年、オスマン・トルコ支配下のギリシャにおいて独立戦争が始まった。スルタンの要請を受けたムハンマド・アリーは、キプロス島・クレタ島におけるギリシャ人の反乱を鎮圧し、両島を支配下に入れた。(下の画像は現在のクレタ島の風景。)
西暦1831年、シリアを要求するムハンマド・アリーとオスマン・トルコとの間に第一次エジプト・トルコ戦争(1831-1833)が起こった。イギリスとフランスの干渉により、オスマン・トルコはシリアをエジプトに割譲した。 西暦1839年、エジプト・スーダンにおける世襲的支配権を要求するムハンマド・アリーとオスマン・トルコとの間に第二次エジプト・トルコ戦争(1839-1840)が起こった。 西暦1840年、ロンドン会議においてロンドン四国条約が結ばれた。その結果、エジプト・スーダンにおけるムハンマド・アリーの世襲的支配権が認められた。但し、シリアはオスマン・トルコに返還された。 西暦1849年、エジプトの西欧化・近代化に努めた太守ムハンマド・アリーが亡くなった。彼の子孫は、西暦1953年までエジプトを支配することとなった。 下の画像は、ムハンマド・アリーがエジプトの首都カイロに建てたムハンマド・アリー・モスク。その敷地は、西暦1176年に反十字軍の英雄サラディンが築いた城砦の跡地だった。
余談ながら、上左のモスクの画像において、ミナレット(尖塔)が二本見えるよね。これはオスマン・トルコのスルタンに対する挑戦を意味するらしいよ。というのも、当時はスルタンのみが二本のミナレットを持つモスクを建てることが許されていたらしいんだ。
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