ヨーロッパの歴史風景 近代・現代編




西暦 1849年、ハンガリー独立運動がハプスブルク家によって押し潰された。


燃え上がるハンガリーの民族運動・独立運動と
ハプスブルク家による抑圧

オーストリア・ハンガリー二重帝国が成立する前の19世紀前半、ハプスブルク家支配下のハンガリーで独立運動が燃え上がったことがある。

西暦1848年、既に高まりを見せていたハンガリーの独立運動は、フランスの二月革命に刺激され、ハプスブルク家の政府からの完全な自治を求めて、独自の内閣を組織したんだ。その指導者が有名なコッシュート・ラヨシュだった。

ところが、ハプスブルク家は軍をハンガリーに派遣して独立運動を抑圧。さらにロシア軍を招き入れて独立派政府を粉砕した。その結果、ハンガリーの独立運動は挫折してしまったんだ。

ハンガリー人よ、祖国に忠実なれ !!

ハンガリーの民族詩人ヴァレシュマルティ・ミハーイ 独立運動の燃え上がるハンガリーにおいて、「ハンガリー人よ、祖国に忠実なれ !!」と呼びかけたのは、民族詩人のヴェレシュマルティ・ミハーイ(右の画像)だった。

ヴェレシュマルティ・ミハーイは、独立派ハンガリー内閣が成立した西暦1848年に国会議員となっている。

しかし、西暦1849年にハンガリーの独立運動が押し潰された後、彼は狂気に陥り、やがて西暦1855年に死去。

悲劇の鎖橋(ブダペスト、ハンガリー)

話は変るが、ハンガリーの首都ブダペストの真ん中を流れるドナウ川にかかる「鎖橋」。ブダペストの観光名所の一つだよね。でも、この鎖橋に関しても、ハンガリー独立戦争の頃の哀しい話が残されているんだ。

ハンガリー独立運動が挫折する30年近く前の西暦1820年、父親の死の報せを受けたセーチェーニ・イシュトヴァーン伯爵は、葬儀の場所へと急いでいた。でも、ブダペスト市内を流れるドナウ川が悪天候によって増水しており、渡ることが出来なかった。結局、父親の葬儀に出席できなかった伯爵は、ドナウ川に橋をかけることを決意したんだ。

西暦1842年、セーチェーニ・イシュトヴァーン伯爵の夢がかない、ドナウ川にかかる橋の工事が始まった。

西暦1848年、ハンガリーの独立運動が高まり、ハプスブルク家との戦争が始まった。砲火によって建設中の橋が破壊される夢を何度も見たセーチェーニ・イシュトヴァーン伯爵の精神は、次第に病んでいった。

西暦1849年、ブダとペストを結ぶ鎖橋が完成した。でも、病によって入院していたセーチェーニ・イシュトヴァーン伯爵は、橋を渡ることなく死去。ドナウ川にかかる鎖橋(下の画像)を最初に渡ったのは、ハンガリーの独立運動を粉砕したハプスブルク家の軍の将軍だった。

夜の鎖橋とブダペストの夜景(ハンガリー)

余談ながら、第二次世界大戦末期の西暦1945年、退却するドイツ軍がこの鎖橋を爆破してしまった。上の画像にある鎖橋は、戦後になって再建されたものなんだ。

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