ヨーロッパの歴史風景 近代・現代編




西暦 1914年、ハプスブルク家の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世がセルビアに対する宣戦布告に署名し、第一次世界大戦が勃発した。


第一次世界大戦の引き金を引いた
ハプスブルク家の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世

ハプスブルク家の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の像(ウィーン、オーストリア) 西暦1914年7月23日、ハプスブルク家支配下のオーストリア政府が、セルビアに対して最後通牒を発した。そこに盛り込まれた10項目の要求のうち、セルビア政府は7項目を承認してきた。

しかし、ドイツ帝国の圧力もあり、セルビアを保護するロシア帝国は参戦しないだろうと見込んでいたオーストリアは、あくまでもセルビアと事を構えるつもりだった。

そして西暦1914年7月28日、外務大臣が携えてきた宣戦布告の書類に、ハプスブルク家の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(右の画像はウィーンに立つフランツ・ヨーゼフ1世の像)が署名したんだ。

皇帝は、ハプスブルク家の支配するオーストリア・ハンガリー帝国のために、ひたすら平和を望んでいたらしい。しかし、彼が署名した一片の書類はヨーロッパ各国の参戦を引き起こし、ついに第一次世界大戦が勃発したんだ。彼は未曾有の大戦の引き金を引いてしまったわけだ。

その二年後の西暦1916年11月20日の夜。朝の3時半に起こすように指示して、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世がベッドに入った。早朝から忙しく働くつもりだったんだ。でも、従僕が3時半に起こそうとした時、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は既に亡くなっていた。享年は86歳だった。

この死は、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世にとって救いだったと言う人もいる。というのも、この死のおかげで、皇帝はオーストリア・ハンガリー帝国の敗北と崩壊を見ることを免れたのだから。

皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と皇后エリザベート(シシー)

西暦1830年生まれのハプスブルク家の貴公子が、ヨーロッパの広大な領土を支配するオーストリア・ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世として即位したのは、まだ18歳の時だった。西暦1848年のこと。

しかし、即位の直後から若い皇帝は広大な帝国を統治する苦労を味わうことになる。ハンガリーにおいて民族主義的な革命運動が巻き起こったんだ。ハプスブルク家はハンガリーの独立運動を押し潰すことになる。その後、若くして即位した皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、68年間にわたってハプスブルク家の帝国を守るために勤勉に働き続けることになる。

そんな皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に華やかな時が訪れたのは、西暦1854年4月24日のことだった。その日、若い皇帝は、ヴィッテルスバッハ家のバイエルン王マクシミリアン1世の孫娘エリザベートと結婚したんだ。(下の画像は、皇帝と皇后エリザベートの肖像。ウィーンで買った絵葉書より。)

ハプスブルク家の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と皇后エリザベート(シシー)

そして西暦1858年、二人の間に長男ルドルフが誕生。しかし、翌年にはイタリアにおいてハプスブルク軍が敗れ、西暦1861年のイタリア王国成立によって多くの領土を失うことになった。

気落ちした皇帝フランツ・ヨーゼフ1世を更につらい気持ちにさせたのは、皇室内での緊張だった。皇后エリザベート(シシー)と皇帝の母ゾフィー皇太后との間がうまくいかなかったんだ。美貌の皇后シシーはウィーンの宮廷を離れ、各地を旅する暮らしを始めた。

オーストリア・ハンガリー二重帝国

皇帝フランツ・ヨーゼフ1世を更に打ちのめしたのは、西暦1866年に起こった普墺戦争だった。この戦いでプロシアに敗れたオーストリアは、ドイツから排除されてしまった。しかも、水の都ヴェネツィアを新しく成立したイタリア王国に割譲することとなった。

他方、イタリアにおける民族的な統一は、ハンガリーの民族主義に再び火をつける結果となった。西暦1867年にはハンガリーにおける妥協を余儀なくされ、以後のハプスブルク家の帝国は「オーストリア・ハンガリー二重帝国」と呼ばれることになった。加えて、同じ年、メキシコの皇帝となっていた弟のマクシミリアンが、メキシコ革命の際に射殺されている。

皇太子ルドルフの自殺と皇后エリザベートの死

苦労の耐えることのないハプスブルク家の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の苦しみは更に続いた。自由主義的で移り気な皇太子ルドルフと皇帝との関係も、決してうまくはいってなかったんだ。

ハプスブルク家の皇太子ルドルフが自殺したマイヤーリンク館(オーストリア) そして西暦1889年1月29日の朝、ウィーンの森の中にあるマイヤーリンクの館で、死体となった皇太子ルドルフが発見された。男爵令嬢マリー・ヴェツェラを道連れに自殺していたんだ。(右の画像は皇太子の自殺の現場となったマイヤーリンクの狩猟館跡にあるカルメル派の修道院。)

そして西暦1898年9月10日、スイスを旅行中の皇后エリザベート(シシー)が、イタリアのテロリストによって暗殺された。夫のいるウィーンには殆どいることもなく、各地を旅行し続けていたシシー(皇后エリザベート)だったが、皇帝フランツ・ヨーゼフは最後まで彼女を愛し続けていたらしい。

戦争への道

家庭的な幸福にはほど遠い皇帝は、知らず知らずに戦争への道を歩んでいた。その重大な一歩が西暦1908年に行われたボスニア・ヘルツェゴヴィナの併合だった。その併合は欧州各国の反発を招き、危うく戦争になるところだった。しかし、この危機はドイツ帝国がロシアを押さえ込むことによって回避された。

そして運命の西暦1914年6月28日、セルビアの首都サラエヴォを訪問していた皇太子フランツ・フェルディナント(皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の甥)と皇太子妃が、セルヴィアのテロリストによって射殺された。ハプスブルク家の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世がセルビアに対する宣戦布告に署名したのは、皇太子夫妻の死から一ヵ月後のことだった。

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