ヨーロッパの歴史風景 近代・現代編




西暦 1992年、地動説を支持したガリレオの異端裁判の誤りをローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が謝罪した。(イタリア)


平和を説いたローマ教皇ヨハネ・パウロ2世

西暦1978年、イタリアの首都ローマのヴァティカンにおいて、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が即位した。ヨハネ・パウロ2世はポーランド人なんだけど、イタリア人ではないローマ教皇の選出は5世紀ぶりのことなんだそうな。

広島の原爆ドーム

そんな教皇ヨハネ・パウロ2世は、即位から3年後の西暦1981年に日本の広島と長崎を訪れ、平和と核兵器の廃絶を訴えたらしい。(上の画像は広島の原爆ドーム。)

ヨハネ・パウロ2世によって列福されたフラ・アンジェリコ

訪日の翌年の西暦1982年には、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世はフラ・アンジェリコを福者とし、列福式を行っている。

イタリアの古都フィレンツェのサン・マルコ美術館で見たフラ・アンジェリコのフレスコ画「受胎告知」

修道士にして宗教画家でもあったフラ・アンジェリコは、イタリアの古都フィレンツェのサン・マルコ修道院(今は美術館)などにキリスト教をモチーフにした多くのフレスコ画を残している。(上の画像はフィレンツェサン・マルコ美術館で見た彼の「受胎告知」。)

フラ・アンジェリコは以前からベアート(福者)・アンジェリコと呼ばれていた。でも、正式には福者とされてはいなかったらしい。そんな彼をあらためて正式に「福者」としたのがローマ教皇ヨハネ・パウロ2世だった。

教皇ヨハネ・パウロ2世は西暦1990年にはゴゾ島を訪れ、いくつもの奇跡で名高いタピーヌ聖堂でミサを捧げている。

ガリレオの異端裁判の誤りを謝罪した教皇ヨハネ・パウロ2世

名高いガリレオ・ガリレイが亡くなったのは西暦1642年のこと。コペルニクスの地動説を支持したガリレオは、ローマ教皇庁による異端裁判で有罪の判決を受けていた。

そして西暦1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世がガリレオの異端裁判の誤りを謝罪したらしい。ガリレオの死から既に350年が経っていた。天国のガリレオもずいぶん長く待たされたわけだけど、それでも謝罪してくれるだけ有り難いよね。

イタリアのピサの斜塔

ピサで生まれたガリレオは、フィレンツェのサンタ・クローチェ教会に葬られている。(上の画像はガリレオが落下の法則の実験を行ったとの伝説のあるピサの斜塔。但し、彼はピサの斜塔でそんな実験はしなかったとか。)

聖人となったローマ教皇ヨハネ・パウロ2世

そんなこんなで語るべきことの多いローマ教皇ヨハネ・パウロ2世なんだけど、彼は他にも多くの足跡を残している。例えば、当時は共産主義国家だった彼の故郷のポーランドで民主化が進んだのは、彼のローマ教皇としての即位が契機となったとも言われている。そんな彼の存在が共産主義世界にとって危険だと考えたKGBが、西暦1981年の教皇暗殺未遂事件を企んだなんて話もあるんだ。

長崎の大浦天主堂にあるローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の胸像

そんなローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が亡くなったのは西暦2005年のこと。84歳だったそうな。(上の画像は長崎の大浦天主堂にある彼の胸像。)

その後、西暦2011年にローマ教皇ベネディクト16世によって彼は福者とされ、更には西暦2014年には教皇フランシスコによって聖人とされている。その年の暮れ、33年前に彼を暗殺しようとしたトルコ人メフメト・アリ・アジャはローマのサン・ピエトロ大聖堂にあるヨハネ・パウロ2世の墓に花をささげたそうな。

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