山上の小さな独立国 サン・マリノ共和国
イタリア中部のアドリア海近くに、とっても小さな独立国がある。それがサン・マリノ共和国(右の略図を参照。)人口は2万5千人ほど。その大部分がイタリア語を話し、ローマ・カトリックを信仰している。独自の通貨サン・マリノ・リラを発行しているけど、その価値はイタリア・リラと同じだ。 つまり、このサン・マリノ共和国は実質的にイタリアの一部みたいなもの。でも、立派な独立国なんだ。 サン・マリノ共和国の起源西暦4世紀、ダルマツィア地方の石工マリノは、リミニの港の工事の為にイタリアに連れて来られた。しかし、キリスト教徒だった彼は、ローマ皇帝ディオクレティアヌスによる迫害を逃れるために、標高750mのチタン山に逃れたんだ。その後、彼を慕う人々がチタン山に集まり始め、集団生活を始めた。その集団は、マリノの死後も存続し、それがサン・マリノ共和国の起源となったと言われる。 法王の庶子チェーザレ・ボルジアによる支配17世紀に渡って守られてきたサン・マリノの独立が危機に瀕したことが二度ほどある。もっとも最近では、西暦1739年に枢機卿ジューリオ・アルベロニがサン・マリノを占領した時のこと。法王クレメンス12世が介入し、枢機卿に軍を撤退させたことによって、その危機は回避された。
もう一つの危機は、西暦1503年に起こった。法王アレクサンデル6世の庶子チェーザレ・ボルジアの支配に屈したときのことなんだ。(右の画像は、サン・マリノの第一の砦「グアイタの塔」。)西暦1498年に枢機卿の地位を投げ打ったチェーザレ・ボルジアは、フランス王シャルル8世やルイ12世の支援を得つつ、武力をもってイタリアに勢力を築き上げようとしていた。 西暦1502年に配下の武将たちの裏切り(マジョーネの反乱)によって危機に陥りながらも、反乱を鎮圧したチェーザレ・ボルジアは、西暦1503年にはイタリアの三分の一近くを支配下に入れていた。 しかし、その年の夏、チェーザレ・ボルジアの父である法王アレクサンドル6世が病死。チェーザレ自身も病に倒れた。その結果、チェーザレ・ボルジアの勢力が衰えたのを利用して、サン・マリノ共和国は自由を回復したわけだ。 チタン山上の三つの城小さな独立国サン・マリノは、常に周囲の野心家から狙われ続けてきた。例えば、アドリア海沿いの街リミニの領主マラテスタ家は、幾度かサン・マリノに攻撃を仕掛けている。そんな野心家の攻撃を、標高750mの岩山の上にある三つの砦と城壁で防ぎながら、小さな共和国は独立を保ってきたわけだ。(下の画像はチタン山。頂上に小さくサン・マリノの町が見える。)
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