ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1526年、メディチ家傍流出身の傭兵隊長ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ(黒備えのジョヴァンニ)が戦死した。


傭兵隊長ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレの肖像画

イタリアの古都フィレンツェにあるウフィツィ美術館を訪れた。イタリア・ルネサンスの画家ボッティチェッリの作品や名門メディチ家ゆかりの絵画を見て歩いたんだ。ところが、広いウフィツィ美術館の部屋の一つで偶然に見かけたのが下の画像の絵画だった。

イタリアの古都フィレンツェのウフィツィ美術館で見たジャン・パオロ・パーチェによる「ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ(黒備えのジョヴァンニ)の肖像画」

ジャン・パオロ・パーチェという聞いたこともない画家が描いた肖像画なんだけど、描かれているのはジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ(あるいは黒備えのジョヴァンニ)。ルネサンス末期のイタリアを代表する傭兵隊長だったそうな。

傭兵隊長ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレの両親

ここでもう一つ絵画を見ておきたい。イタリア・ルネサンスを代表する画家ボッティチェッリの名画「春(プリマヴェーラ)」(下の画像は部分)だね。この名画の中には傭兵隊長ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレの母が描かれているらしい。

イタリアの古都フィレンツェのウフィツィ美術館で見たボッティチェッリの「春(プリマヴェーラ)」(部分)

上の画像の中央やや右に描かれているのはヴィーナスなんだけど、その左には三美神がいるよね。その三美神の右側(ヴィーナスのすぐ左)の女性のモデルがカテリーナ・スフォルツァ、即ち傭兵隊長ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレの母だったそうな。

ミラノ公爵家に生まれたカテリーナ・スフォルツァは、フォルリの伯爵の未亡人となっていた。(傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァがミラノ公となった家)そのフォルリにフィレンツェの大使として西暦1496年に派遣されたのが、メディチ家の傍流(ジョヴァンニ・ディ・ビッチの次男、つまり国父コジモの弟の子孫)の出身のジョヴァンニだった。イル・ベッロ(美男子)と呼ばれる人物だった。

美男子ジョヴァンニと伯爵未亡人カテリーナ・スフォルツァは秘かに結婚し、2年後の西暦1498年には男の子が生まれ、ロドヴィコと名づけられた。でも、その5ヵ月後にはイル・ベッロは亡くなってしまった。生まれたばかりで父を失った赤ん坊は、父の名を受け継ぎ、あらためてジョヴァンニと名づけられた。この男の子こそが後に著名な傭兵隊長となるわけだ。

フィレンツェ、そしてローマで育った傭兵隊長ジョヴァンニ

イル・ベッロが亡くなった翌年の西暦1499年、ローマ教皇アレクサンデル6世を父に持つ野心的なチェーザレ・ボルジアが軍を率いてフォルリに向かってきた。伯爵未亡人カテリーナ・スフォルツァは防備をかためる一方で子供たちをフィレンツェに疎開させたらしい。

フォルリに籠城する伯爵未亡人カテリーナ・スフォルツァ。しかし、翌年1月には城砦は陥落し、彼女は捕われの身となってしまった。彼女はローマに連れて行かれ、ヴァティカンの入口にあるサンタンジェロ城の中に幽閉されたそうな。(下の画像はそのサンタンジェロ城の屋上から眺めたヴァティカン宮殿やサン・ピエトロ大聖堂の様子。)

イタリアの首都ローマにあるサンタンジェロ城の屋上から眺めたヴァティカン宮殿やサン・ピエトロ大聖堂

年が明けて西暦1501年、ローマに幽閉されていた彼女を救い出したのは、イタリアに侵攻したフランス王ルイ12世の将軍だった。解放されたカテリーナ・スフォルツァが向かったのは、子供たちが待つフィレンツェだった。

彼女は亡くなったイル・ベッロ(美男子)ジョヴァンニがフィレンツェに残したヴィラに住んだらしい。でも、亡夫が残した幼子ジョヴァンニの養育権をめぐり、亡夫の親族との争いが続いたんだそうな。そして西暦1504年、争いが決着し、カテリーナ・スフォルツァはようやく幼子と一緒に暮らし始めた。

5年後の西暦1509年、カテリーナ・スフォルツァが亡くなった。生後間もなく父を失い、11歳にして母をも失った少年ジョヴァンニは、メディチ家の嫡流の生まれにして枢機卿となっていたジョヴァンニ・デ・メディチによってローマで育てられたらしい。

枢機卿は西暦1513年にはローマ教皇レオ10世として即位している。その教皇の下でジョヴァンニは軍人として成長していった。やがて西暦1521年にレオ10世が亡くなると、ジョヴァンニは黒い帯を身にまとい、武具にも黒い旗を取り付けた。部下たちにも黒い喪章を付けさせたそうな。故にジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ、あるいは黒備えのジョヴァンニと呼ばれる。

フィレンツェ大公となった傭兵隊長ジョヴァンニの息子

その後も傭兵隊長ジョヴァンニは戦火に身をさらしている。西暦1524年には皇帝カール5世の軍と共にフランス軍を撃破。しかし、翌年にはメディチ家出身のローマ教皇クレメンス7世の命によってフランス軍の戦列に加わり、皇帝カール5世の軍と戦っている。

そして西暦1526年、イタリアに侵攻してきた神聖ローマ帝国軍と戦った傭兵隊長ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレは砲撃によって重傷を負い、治療の甲斐もなく亡くなってしまった。28歳だった。

その後、メディチ家嫡流が断絶。メディチ家傍流の出身の傭兵隊長ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレの忘れ形見がフィレンツェ大公コシモ1世となった。亡父である傭兵隊長ジョヴァンニの軍事的な名声が傍流出身のコシモ1世の大公位継承に大きく影響したそうな。

イタリアの古都フィレンツェのヴェッキオ宮殿の脇にあるシニョーリア広場に立つメディチ家の大公コシモ1世の騎馬像

ちなみに、フィレンツェ大公コシモ1世(西暦1519年生まれ)の母であるマリア・サルヴィアティは、ローマ教皇レオ10世の妹ルクレツィアの娘だったそうな。(上の画像はフィレンツェのヴェッキオ宮殿の脇にあるシニョーリア広場に立つコシモ1世の騎馬像。)

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