エセー(随想録)の著者 モンテーニュ西暦1533年、フランス西部の街ボルドー近くの貴族の家に男の子が生まれた。その名はミシェル・ド・モンテーニュ。
ミシェルの両親は、息子にラテン語で教育を受けさせたんだけど、それは無駄にはならなかったみたい。やがてミシェル・ド・モンテーニュは、プルタルコスの「英雄列伝」、プラトン、ヘロドトスなどの古典を研究し、人生のあり方について書いた「エセー(随想録)」を残したんだからね。 (右の画像は、ボルドーの街のカンコンス広場にあるモンテーニュの像。) 裁判官を引退し思想家になったモンテーニュ大学を出てから裁判官となったモンテーニュなんだけど、西暦1571年には引退しちゃったんだ。といっても、まだまだ38歳の若さ。それで暮らしていけるんだから、お金持ちだったんだねえ。しかし、さすがにモンテーニュは凡人じゃなかった。お金があって時間があっても、遊んで暮らしていたわけじゃなかったんだ。古代の人々の思想を学び、それを繁栄させた「エセー(随想録)」の第一巻・第二巻を世に出したのが西暦1580年のこと。(それも自費出版だったというから、やっぱり御金持ちだ。) 憧れの都ローマへ「エセー(随想録)}の第一巻・第二巻を出版して満足したのか、疲れちゃったのか。モンテーニュは故郷を後に旅に出たんだ。そして西暦1580年11月末にはローマに到着。古典を研究し続けてきたモンテーニュだから、古代ローマの遺跡などを見て歩いたんだろうね。(下の画像はイタリアの首都ローマに残るフォロ・ロマーノの眺め。)
もちろん、モンテーニュが旅したローマは、古代ローマ帝国時代の姿ではなかったし、現代の私たちが見ることのできるローマでもないんだ。 一時期は荒れ果てていたローマなんだけど、モンテーニュが旅した頃には、現代も見ることの出来る建物なども出来上がっていた。例えば現在のヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂の建築工事が始まったのが、西暦1506年のこと。また、西暦1499年に完成していたミケランジェロのピエタは見ることができたかな。 他方で、現在のローマを特徴づけているバロックの時代はまだ来てはいなかった。当然ながら、バロック美術の旗手ベルニーニの作品もモンテーニュは見ていないんだ。例えば、サン・ピエトロ大聖堂前の広場(サン・ピエトロ広場)も、モンテーニュの頃にはなかったんだ。 その後のモンテーニュ憧れの都ローマに滞在を続けていたモンテーニュのもとへフランスから報せが届いた。彼がボルドーの市長に選ばれたんだそうな。ローマ滞在を半年で切り上げたモンテーニュは、ボルドー市長の職を4年間務めたんだ。その後、再び悠々自適の暮らしに戻ったモンテーニュは、再び執筆活動に戻り、西暦1588年には「エセー(随想録)」第三巻を出版。そして、西暦1592年に亡くなっている。
All rights reserved このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。
|