ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1737年、イタリアの名門メディチ家の最後のトスカナ大公ジャン・ガストーネがフィレンツェで亡くなった


メディチ家のトスカナ大公の息子ジャン・ガストーネ

ジャン・ガストーネ・デ・メディチは西暦1671年にイタリアの古都フィレンツェで生まれた。下の画像はメディチ家ゆかりのピッティ宮殿の裏にあるボボリ庭園のカフェから眺めたフィレンツェの風景なんだ。

メディチ家ゆかりのピッティ宮殿の裏のボボリ庭園のカフェから眺めたイタリアの古都フィレンツェ

ジャン・ガストーネの父はメディチ家の第6代トスカナ大公だった。とはいえ、トスカナ大公位は彼の兄のフェルディナンドが継承することが期待されており、ジャン・ガストーネが大公になるとは思われてはいなかったらしい。

そんなジャン・ガストーネに対して父のトスカナ大公コシモ3世はさほどの宮廷費の支出を許さず、ぜいたくな暮らしはさせてはもらえなかった。でも、彼には知的な探究心があり、植物学や科学にも深い関心を抱いていた。

ジャン・ガストーネの悲惨な結婚生活

西暦1697年、ジャン・ガストーネはザックス・ラウエンブルク公国の公女アンナ・マリア・フランツィスカと結婚した。都会や宮廷を嫌う彼女の要求に従い、二人はボヘミア(今のチェコ)の田舎で暮らし始めた。

ところが、そこでの暮らしはジャン・ガストーネには耐えられないものだった。夫人は気まぐれで激しいヒステリーがあり、田舎の村には知的な社交も有り得なかった。酒びたりになった彼は、とうとう我慢できなくなり、夫人を残してフランスの首都パリに逃亡したらしい。

彼のパリへの逃避は父のトスカナ大公コシモ3世を激怒させた。大公は彼にボヘミアに戻ることを命じたそうな。しぶしぶボヘミアの田舎に戻った彼だった。でも、やはり夫人との不仲に耐え切れず、夫人を残してプラハに出て行ってしまった。(下の画像は今のチェコの首都プラハの街の様子。)

チェコの首都プラハの風景

プラハでの荒れた生活の結果、ジャン・ガストーネはぶくぶくと太っていった。しかもギャンブルに入れ込み、借金も膨れ上がっていった。父のトスカナ大公は使者を送り、息子は再び夫人の住む田舎に戻されている。ところが、不機嫌で怒りっぽい夫人との暮らしはやはり彼には耐えられず、またもやプラハに逃げ出している。

この期に及び、トスカナ大公コシモ3世は息子夫婦をフィレンツェに呼び寄せることを考えた。ローマ教皇クレメント11世に頼み込み、大司教を派遣してもらい、ジャン・ガストーネの夫人にフィレンツェに移り住むようにと説得してもらおうとした。でも、夫人を激怒させただけで成果は得られなかった。

結局、トスカナ大公コシモ3世は息子だけをフィレンツェに呼び返している。西暦1708年のこと。それ以後、ジャン・ガストーネは二度と夫人に会うこともなかったらしい。

生まれ故郷のフィレンツェに戻ったジャン・ガストーネ。でも、彼は過度に高潔な父親を嫌悪に、トスカナ大公宮殿には近寄らなかったらしい。彼は夜中ずっと一人で過ごし、飲み続け、月を眺めていた。返事を書くのがいやで、届けられた手紙も開封しなかったんだそうな。

ジャン・ガストーネの即位とトスカナ大公位の継承問題

西暦1713年、ジャン・ガストーネの兄のフェルディナンドが亡くなった。後継者は残さなかった。その結果、トスカナ大公コシモ3世が亡くなった場合には、大公位はジャン・ガストーネによって継承されることになった。しかも、彼にも後継者はいなかった。その結果、トスカナ大公位の将来の継承問題がイタリアの、いやヨーロッパ各国、各王家の重要な関心事となったんだ。

西暦1723年、トスカナ大公コシモ3世が亡くなった。息子のジャン・ガストーネ・デ・メディチが第7代トスカナ大公となった。その頃のフィレンツェには貧民が溢れ、トスカナ公国の財政は困窮を究めていたらしい。そんな公国の支配者であるジャン・ガストーネは公的な儀式の席でも酒びたりで嘔吐を繰り返していたそうな。しかも、西暦1729年に転んだ際に足首を傷め、以後は殆ど寝たきりになってしまった。

先の大公コシモ3世は、ジャン・ガストーネの大公位を継承するのはその姉のアンナ・マリーア・ルイーズと定めていた。しかし、ヨーロッパの列強が大公位の継承者としたのは、スペインのブルボン家の王子カルロだった。西暦1731年にはスペインのブルボン家は3万人もの軍を派遣してトスカナを占領している。

イタリア南部の中心ナポリの王宮

ところが、西暦1733年にはポーランド継承戦争が起こった。その機に乗じたスペインのブルボン家の王子カルロはトスカナに駐屯していた軍を率いて南下し、ハプスブルク家が支配していたナポリを占領し、西暦1735年にはナポリ王カルロ7世として即位している。(彼は西暦1759年にはスペイン王カルロス3世となっている。)

そんなこんなでスペインのブルボン家はトスカナ大公位の継承権を放棄した。代わってトスカナに兵を送り込んだのはハプスブルク家だった。そして西暦1737年、メディチ家最後のトスカナ大公ジャン・ガストーネが66歳で亡くなった。大公位を継承したのは、ハプスブルク・ロレーヌ家のフランチェスコ2世だった。

ちなみに、フランチェスコ2世の奥さんはオーストリアの女帝マリア・テレジアだった。やがてオーストリア継承戦争の後、フランチェスコ2世は神聖ローマ帝国皇帝フランツ1世となるわけだ。

ピッティ宮殿に住んだ最後のメディチ家の人物

メディチ家最後のトスカナ大公は亡くなった。が、ピッティ宮殿にはジャン・ガストーネの姉アンナ・マリーア・ルイーズ・デ・メディチが住んでいた。彼女が亡くなったのが西暦1743年のこと。メディチ家嫡流の最後の一人だった。(メディチ家傍流は続いているけど。)

以後、フランス革命からナポレオンの時代を除き、トスカナ大公国はハプスブルク・ロレーヌ家の支配下にあった。そして西暦1828年、ハプスブルク・ロレーヌ家のトスカナ大公レオポルド2世がピッティ宮殿内にあるパラティナ美術館を公開した。

イタリアの古都フィレンツェにあるメディチ家ゆかりのピッティ宮殿の中のパラティナ美術館で見るラファエロの「小椅子の聖母」

そのパラティナ美術館で私たちはメディチ家が収集した多くの美術品(例えば上の画像にあるラファエロの「小椅子の聖母」)などを見ることが出来るんだね。パラティナ美術館にはハプスブルク・ロレーヌ家の大公が収集した美術品もあるけどね。

その後、西暦1861年に統一イタリア王国が成立し、西暦1865年にイタリア王国の首都がフィレンツェに移された後は、ピッティ宮殿は国王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世の宮殿となった。

しかし、西暦1871年にイタリアの首都がローマに移され、ピッティ宮殿は主のいない建物となってしまった。そして西暦1915年にイタリア王家がピッティ宮殿をイタリア国家に寄贈し、現在に至るわけだ。

次のページ



姉妹サイト ヨーロッパ三昧

ヨーロッパ三昧

このサイト「ヨーロッパの歴史風景」の本館が「ヨーロッパ三昧」です。イギリス・フランス・イタリア・スペイン・ギリシャ・トルコ・エジプト・ロシア・アゼルバイジャンなど25国45編の旅行記を掲載しています。こちらも遊びに行ってみてくださいね。

「ヨーロッパ三昧」のトップ・ページのURLは、 http://www.europe-z.com/ です。

Copyright (c) 2002-2014 Tadaaki Kikuyama
All rights reserved
管理・運営 あちこち三昧株式会社
このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。