ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1737年、メディチ家最後のトスカナ大公ジャン・ガストーネが亡くなった。


ボボリ庭園から眺めるフィレンツェ市街

イタリアの古都にして有数の観光地フィレンツェに来たら、アルノ川にかかるヴェッキオ橋を渡り、高台の上を歩くのもお薦めなんだ。例えばボボリ庭園の中の丘にあるカフェからは、下の画像のようなフィレンツェ市街の眺めを楽しむことが出来る。イタリアに来たならば、首都ローマと同様に訪れたい街の眺めだよね。

イタリアの古都フィレンツェにあるボボリ庭園から見たフィレンツェ市街 イタリアの古都フィレンツェにあるボボリ庭園から見たフィレンツェ市街 イタリアの古都フィレンツェにあるボボリ庭園から見たフィレンツェ市街 イタリアの古都フィレンツェにあるボボリ庭園から見たフィレンツェ市街

後期メディチ家の人々が住んだピッティ宮殿

ボボリ庭園の丘を下れば、そこに見えるのがピッティ宮殿(下の画像)。西暦1537年に断絶したメディチ家兄脈から当主の座を継承したコジモ1世(メディチ家弟脈出身)の夫人エレオノーラ・デ・トレドが西暦1549年に買い取った宮殿なんだ。以後、この宮殿には代々のメディチ家当主が住んでいた。(コジモ1世以後のメディチ家を、後期メディチ家と呼ぶことにしよう。)

イタリアの古都フィレンツェにあるボボリ庭園から見たピッティ宮殿 イタリアの古都フィレンツェにあるボボリ庭園から見たピッティ宮殿 イタリアの古都フィレンツェにあるボボリ庭園から見たピッティ宮殿 イタリアの古都フィレンツェにあるボボリ庭園から見たピッティ宮殿

メディチ家最後のトスカナ大公ジャン・ガストーネ

メディチ家弟脈出身のコジモ1世以後、代々のトスカナ大公にしてメディチ家の当主は、このピッティ宮殿に住んでいたんだ。ところが、西暦1737年、トスカナ大公ジャン・ガストーネ・デ・メディチが亡くなった。

彼の兄であるフェルディナンドは後継者を残さずに西暦1713年に亡くなっていた。ジャン・ガストーネ自身も子供を残してはいなかった。そして列強による交渉の結果、トスカナ大公位はハプスブルク・ロレーヌ家のフランチェスコ2世によって継承されたんだ。つまり、ジャン・ガストーネ・デ・メディチはメディチ家出身の最後のトスカナ大公となったわけだ。

数年後の西暦1743年、ジャン・ガストーネの姉にあたるアンナ・マリーア・ルイーズ・デ・メディチがピッティ宮殿内で亡くなった。ピッティ宮殿に住んだ最後のメディチ家の人間が彼女だった。

余談ながら、トスカナ大公位を継承したハプスブルク家のフランチェスコ2世の別の名は、フランツ・シュテファンという。どこかで聞いたことのある名前でしょ。そう、あのオーストリアの女帝マリア・テレジアのご主人だよね。やがてオーストリア継承戦争の後、フランツ・シュテファンは神聖ローマ帝国皇帝フランツ1世となるわけだ。

ピッティ宮殿内にあるパラティナ美術館

ハプスブルク・ロレーヌ家のフランツ・シュテファン(神聖ローマ皇帝フランツ1世)の後、トスカナ大公位を継承したのは三男のレオポルド1世だった。以後、フィレンツェのピッティ宮殿には彼の子孫が住んでいた。

イタリアの古都フィレンツェのピッティ宮殿内にあるパラティナ美術館の内部 フランス革命後の西暦1799年以後、トスカナはフランスの支配下に落ちていたけれども、ナポレオンが没落した西暦1814年にはハプスブルク・ロレーヌ家がトスカナ大公位を回復している。

そして西暦1828年、ハプスブルク・ロレーヌ家のトスカナ大公レオポルド2世が、ピッティ宮殿内にパラティナ美術館(右の画像)を公開した。

そのおかげで私たちはフィリッポ・リッピやカラヴァッジョの作品、ラファエロの聖母などを見ることが出来るわけだね。

【参考】都市別ツアー検索


【参考】都市別ホテル検索





ピッティ宮殿の運命

ところで、このピッティ宮殿(その正面が下の画像)なんだけど、建設を始めたのは15世紀フィレンツェの銀行家ルカ・ピッティだった。設計者は花の聖母マリア大聖堂(ドゥオモ)のクーポラを完成させたフィリッポ・ブルネレスキだった。

イタリアの古都フィレンツェにあるピッティ宮殿正面 イタリアの古都フィレンツェにあるピッティ宮殿正面 イタリアの古都フィレンツェにあるピッティ宮殿正面 イタリアの古都フィレンツェにあるピッティ宮殿正面

ところが、西暦1478年に起こったメディチ家に対するパッツィ家の陰謀に加担してルカ・ピッティが失脚。ピッティ宮殿の建設も未完成のままとなってしまった。その後、ピッティ宮殿を完成させたのが、先に書いたコジモ1世とエレオノーラ・デ・トレドだったわけだ。

その後、このピッティ宮殿の主はハプスブルク・ロレーヌ家のトスカナ大公となったことは既に書いたけど、西暦1861年に統一イタリア王国が成立し、西暦1865年にイタリア王国の首都がフィレンツェに移された後は、ピッティ宮殿は国王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世の宮殿となった。

しかし、西暦1871年にイタリアの首都がローマに移され、ピッティ宮殿は主のいない建物となってしまった。そして西暦1915年にイタリア王家がピッティ宮殿をイタリア国家に寄贈し、現在に至るわけだ。



関連書籍

参考になる・・・かもしれない本を探してみました。


次のページ


関連リンク

旅行記「エミリア・ロマーニャとトスカナ(イタリア)」
・・・ ボローニャ、ラヴェンナ、サン・マリノ、サン・ジミニャーノ、シエナ、フィレンツェ ・・・




姉妹サイト ヨーロッパ三昧 (旅・食・花)

ヨーロッパ三昧

イギリス・フランス・イタリア・スペイン・ギリシャ・トルコ・エジプトなどヨーロッパと香港の旅行記 25カ国42編を中心とするサイト「ヨーロッパ三昧」。

20カ国100店のレストランを紹介するコーナーや、ロンドンに住んでいた頃のガーデニング日記、日本国内を旅する四季の日本のコーナーなどもあります。


「ヨーロッパ三昧」のトップ・ページのURLは、 http://www.europe-z.com/ です。

姉妹サイト イタリア三昧+マルタ

イタリア三昧+マルタ

イタリアの旅行記5編とマルタの旅行記2編から構成される旅行記集です。画像の数も増え、大きさ・画質も改善して、本館「ヨーロッパ三昧」から独立しました。

「イタリア三昧+マルタ」のトップ・ページのURLは、 http://www.italy-malta-z.com/ です。

Copyright (c) 2003 Tadaaki Kikuyama
All rights reserved
このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。