オーストリア大公位争奪戦ヨーロッパの首都ウィーンを中心とするオーストリア・・・といえば、すぐに頭に浮かぶのは長く神聖ローマ皇帝位を保ったハプスブルク家かな。ところが、ハプスブルク家がオーストリアを獲得するまで、中世ヨーロッパの名家がオーストリア大公位を争っていたんだ。そんな争いに勝ち残って、ハプスブルク家がオーストリア大公位を獲得したわけだ。 プシェミスル家(ボヘミア)と
神聖ローマ帝国の許にオーストリア辺境伯領が成立したとき、その領主となったのはバーベンベルク家だった。やがてバーベンベルク家はオーストリア大公位を獲得する。 |
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オーストリア大公位争奪戦をリードしたのは、ボヘミア(チェコ)王家であるプシェミスル家だった。 西暦921年からボヘミア(チェコ)の支配者だったプシェミスル家は、西暦1251年にオーストリア大公位を獲得したんだ。(右の画像は、チェコの首都プラハの王宮にあるボヘミア王の玉座。)
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ところが、隣国ハンガリー王国のアールパード朝のハンガリー王ベーラ4世も黙っていない。オーストリア大公位継承争いに介入してきたんだ。左の画像はハンガリーの首都ブダペストに残るマーチャーシュ教会。ベーラ4世が建てたもの。(後にマーチャーシュ王が改築したけど。) |
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ハプスブルク家によるオーストリア大公位獲得神聖ローマ帝国の諸侯たちがボヘミアのプシェミスル・オタカル2世に対して警戒心を強めた結果、西暦1273年に神聖ローマ皇帝に選出されたのは、スイスのバーゼルを根拠地としていたハプスブルク家の伯爵ルドルフだった。神聖ローマ皇帝に選出されたハプスブルク家のルドルフは、ボヘミアのプシェミスル家が旧バーベンベルク家領を不当に獲得したと非難して裁判を始めたんだ。しかし、強勢を誇るプシェミスル・オタカル2世は出頭命令に従わない。 ところが、ドイツ諸侯から警戒されていたプシェミスル家は孤立していた。結局は神聖ローマ皇帝ルドルフに屈服し、オーストリア大公位を取り上げられちゃったんだ。それでも神聖ローマ皇帝ルドルフは容赦しない。西暦1278年にはマルヒフェルトの戦いでプシェミスル家の軍を撃ち破り、プシェミスル・オタカル2世は戦死しちゃった。 そして西暦1282年、ハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝ルドルフは、息子のアルブレヒトとルドルフに、オーストリア・シュタイアーマルク・クラインなどの領地を与えたんだ。(下の画像は、ウィーン郊外にあるプラターの並木道。かつてはハプスブルク家の狩猟地だった。)
その後、ハプスブルク家はオーストリアを根拠地に勢力を拡大し、やがては皇帝家として巨大な力を得ることは誰もが知っている通りだね。
プシェミスル家とアールパード家のその後他方でボヘミア王国のプシェミスル家なんだけど、プシェミスル・オタカル2世が戦死した後は、その子のヴァーツラフ2世がボヘミア王位を継いだんだ。そのヴァーツラフ2世は一時はポーランド王位まで獲得する。また、彼はハプスブルク家の神聖ローマ皇帝アルブレヒト1世を戦いで撃ち破ったこともあるんだ。再び勢いを盛り返すかに見えたプシェミスル家。しかし、西暦1305年にボヘミア王位を継承したヴァーツラフ3世が、その翌年にあっさりと亡くなってしまう。ここにボヘミアの名門プシェミスル家は断絶してしまった。 そのプシェミスル家と中欧・東欧の覇権を競ったハンガリー王国の名門アールパード家なんだけど、西暦1301年にはハンガリー王アンドラーシュ3世が亡くなり、こちらも断絶してしまったんだ。 こうして中欧・東欧の名門が断絶し、ボヘミア王国はルクセンブルク家が継承し、他方でハンガリー王国はイタリア南部のカンパーニャ地方にあるナポリを支配していたアンジュー家が継承した。ハプスブルク家が中欧・東欧に覇権を打ち立てるのは、少し先のことになるね。 関連書籍参考になる・・・かもしれない本を探してみました。
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