ヨーロッパの歴史風景 中世編




西暦1328年、フランス王シャルル4世が亡くなり、カペー朝が断絶。やがて英仏間の百年戦争の火種となる。


牢獄として名高いシテ島のコンシェルジェリー

フランスの首都パリの中心をなすシテ島の第一の観光の目玉といえば、まずはノートルダム大聖堂だよね。その次といえば、コンシェルジェリーかな。

フランスの首都パリの中心シテ島にあるコンシェルジェリーの中の独房 このコンシェルジェリーは、西暦1391年から1914年まで牢獄として使われていたんだ。右の画像に写っている廊下の右側には、独房が並んでいるんだよ。

牢獄としてのコンシェルジェリーの名を高めたのは、フランス革命の時代かな。当時は4000人もの受刑者が投獄され、ここからギロチンによる処刑場に送り出された人々の数は2700人にも達するらしい。

このコンシェルジェリーに投獄された人々の中には、歴史上の有名人もいるんだ。例えば、宗教戦争を勝ち抜いたブルボン家のフランス王アンリ4世を暗殺したラヴァイヤック、フランス革命期の恐怖政治で有名なロベスピエール、そしてハプスブルク家からブルボン家に嫁入りしたフランス王妃マリー・アントワネットなどなど。

元々は後期カペー朝フランス王家の王宮

牢獄として有名なシテ島のコンシェルジェリーは、元から牢獄だったわけじゃないんだ。そもそもは14世紀の前半にカペー朝フランス王家の王宮として築かれた建物だったんだ。

その後、何度も火災にあい、増改築の手が加えられているから、建設当初の姿を残している部分は少ないらしい。でも、下の画像にある1階の広間は、14世紀前半の様子を比較的に残しているんだそうな。

フランスの首都パリの中心シテ島にあるコンシェルジェリーの1階広間 フランスの首都パリの中心シテ島にあるコンシェルジェリーの1階広間 フランスの首都パリの中心シテ島にあるコンシェルジェリーの1階広間 フランスの首都パリの中心シテ島にあるコンシェルジェリーの1階広間

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フランス王家となったカペー家の歴史

じゃあ、後にコンシェルジェリーと呼ばれるようになったシテ島の王宮を築いたカペー家ってどんな人々だったのかな ??

カペー家の先祖は、ライン川付近の豪族だったんだそうな。その後、フランスを荒らしまわるヴァイキング(ノルマン人)に対処するために、カロリング王家から領地を与えられた。

そして西暦885年から886年にかけてフランスの首都パリをヴァイキング(ノルマン人)から守り抜いたのが、カペー家の御先祖のパリ伯ウードだった。そのパリ伯ウードは西暦888年にフランス王(西フランク王)となったんだけど、彼がフランス王位を得た最初のカペー家出身者。

その後はカール大帝(シャルルマーニュ)ゆかりのカロリング王家が王位を回復したり、ウードの弟のパリ伯ロベールがフランス王となったり・・・、この頃のフランス王国は混乱していたみたいだね。

そして西暦987年、カロリング王家出身のフランス王ルイ5世が亡くなり、カロリング朝は最終的に断絶してしまった。その王位を得たのが、パリ伯ユーグ・カペー。以後はカペー朝のフランス王が続くわけだ。

歴代のカペー朝フランス王の中でも著名な人物としては、イングランド王リチャード1世(獅子心王)のライバルだったフィリップ2世(フィリップ・オーギュスト)や、二度にわたる十字軍遠征を行い、後に聖人とされたフランス王ルイ9世(聖ルイ王)かな。




カペー朝フランス王フィリップ4世

西暦1285年、カペー家のフィリップ4世(美王)がフランス王として即位した。フランスの首都パリの中心シテ島に王宮(今のコンシェルジェリー)の建設を始めたのは、このフィリップ4世だったんだ。(下の画像は現在のコンシェルジェリー。)

フランスの首都パリの中心シテ島にあるコンシェルジェリーとセーヌ川 フランスの首都パリの中心シテ島にあるコンシェルジェリーとセーヌ川 フランスの首都パリの中心シテ島にあるコンシェルジェリーとセーヌ川 フランスの首都パリの中心シテ島にあるコンシェルジェリーとセーヌ川

ところが、このフィリップ4世なんだけど、王宮を建てて喜ぶだけの男じゃなかった。その治世を通じて、あちらこちらで揉めごと・争いごとを巻き起こしているんだ。

西暦1296年にローマ法王ボニファティウス8世が聖職者への課税を禁止すると、今のイタリアの首都ローマを拠点にカトリック世界をリードしていたローマ法王と対立を始めた。西暦1303年には法王ボニファティウス8世を捉えるという事件(アナーニ事件)を起こしている。しかも、西暦1309年にはローマ法王クレメンス5世をしてアヴィニョンに移らせてしまった。(いわゆる「アヴィニョン捕囚」。)

他方では、フランス北部・西部に領地を持つイングランド王家とも何度も戦っている。(下の画像は、当時イングランド領だったボルドーの南のブドウ畑。いわゆる「ギュイエンヌ」の一部かな。)

フランス西部ボルドー付近のブドウ畑 フランス西部ボルドー付近のブドウ畑 フランス西部ボルドー付近のブドウ畑 フランス西部ボルドー付近のブドウ畑

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更にフィリップ4世は、西暦1312年には十字軍ゆかりのテンプル騎士団を解散させ、西暦1314年には元テンプル騎士団長ジャック・ド・モレを処刑しているんだ。ところが、その年にカペー朝フランス王フィリップ4世も亡くなってしまった。

カペー朝フランス王家の終焉と百年戦争の火種

西暦1314年にフィリップ4世が亡くなり、王位を継承したのがルイ10世。ところが、このルイ10世も二年後には亡くなり、ジャン1世が即位。その五日後にジャン1世が亡くなったために、フィリップ5世が即位。代わって即位したのが、カペー家最後のフランス王シャルル4世だった。

そのシャルル4世も西暦1322年には亡くなってしまった。ここに長い歴史を誇るカペー朝フランス王家が断絶し、代わってヴァロワ家のフィリップ6世がフランス王となったわけだ。ところが、ヴァロワ家によるフランス王位継承に異議を唱えたのが、イングランド王エドワード3世だった。

彼の父祖に当たるエドワード1世はフランス王フィリップ4世の妹マルグリットと結婚し、エドワード2世はフィリップ4世の娘イザベルを妻としていることから、エドワード3世の方がヴァロワ家のフィリップ6世よりもフランス王位継承の資格があるというわけだ。

それが西暦1339年から1453年まで続いたイギリスとフランスとの間の百年戦争の火種となるわけだね。



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(パリ、ロワール、ノルマンディ、シャルトル)




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