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西暦1370年、オスマン・トルコ軍がワラキア(現ルーマニア領)に侵入し、ワラキア軍と初の戦闘を行った。
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オスマン・トルコのヨーロッパへの進出
西暦1365年、小アジアから勢力を拡大してきたオスマン・トルコが、その都をヨーロッパ側にあるアドリアノープル(現トルコ領エディルネ)に移した。
以後、オスマン・トルコの部隊はバルカン半島各地に出没し、西暦1370年にはワラキア公国(現ルーマニア領)に侵入してワラキア軍と初めての交戦を行っている。
ルーマニアにおける要塞建設
オスマン・トルコ部隊の襲撃を受けたルーマニア各地では、この時期に要塞建設が進められている。
例えば、右の画像(絵葉書の一部)にあるブラン城は、カルパチア山脈の北にあるトランシルヴァニアと南側のワラキアとの間を結ぶ街道の守りを固めるために、西暦1377年(あるいは1378年)に築かれたもの。
ちなみに、このブラン城(右の画像は私が撮影したもの)は、ドラキュラのモデルとなった串刺し公ヴラッド・ツェペシュの城として観光客を集めている。
でも、串刺し公とブラン城との関係は確認されていないらしいよ。串刺し公の祖父のミルチャ老公はブラン城の所有者の一人だったから、串刺し公とブラン城との間に関係があっても不思議ではないらしいけどね。
現代のブラン城
そんな歴史あるブラン城なんだけど、第二次世界大戦の後にルーマニアに成立した共産主義政権によって没収され、博物館とされていた。ところが、20世紀末には共産主義政権が崩壊し、その後のルーマニア政府は共産主義時代に没収された資産の返還を進めてきた。その結果、ブラン城も元の所有者の子孫に変換されることになったんだそうな。
その元の所有者の子孫というのが、アメリカに住んでいる建築家。その方の姓がハプスブルクさんというんだけど、オーストラリアの名家ハプスブルクに所縁のある方なんだろうね。ちなみに、このブラン城の価値は約36億円と推定されているらしいよ。
今はこのブラン城は一般公開されている。そこへ行けば、一般の観光客もブラン城の中を歩くことができるらしい。でも、返還後は一般公開が続くのかどうかは不明なんだと。少なくとも返還後の3年間は一般公開されるらしいから、興味のある方は早めに見に行ったほうがいいかも。
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