オスマン・トルコによるワラキア(現ルーマニア領)侵入西暦1365年にヨーロッパ側のアドリアノープル(現トルコ領エディルネ)に首都を移していたオスマン・トルコは、その後もヨーロッパに勢力を拡大していた。そして西暦1391年、大規模なオスマン・トルコ軍部隊がドナウ川を渡河してワラキア(現ルーマニア領)に侵攻してきた。しかし、当時のワラキア公ミルチャ老公(バサラブ1世の孫にして、串刺し公ヴラッド・ツェペシュの祖父)は、同盟していたハンガリー王と共に、オスマン・トルコ軍を撃退することが出来たんだ。 ところが、西暦1394年にはスルタンであるバヤジット1世自身の指揮するオスマン・トルコ軍がワラキアに侵入してきた。ワラキア公ミルチャ老公は、今度も同盟していたハンガリー王の支援を得て、オスマン・トルコ軍を迎え撃つ。 しかし、西暦1395年にワラキア公ミルチャ老公が敗北。老公はカルパチア山脈(下の画像)を越えてトランシルヴァニアに逃れた。他方、ワラキア公国では新しいワラキア公ダン1世がオスマン・トルコへの貢納を約束していた。
その後、ハンガリー王の支援を得てワラキア公に復帰したミルチャ老公は、オスマン・トルコとの戦いを再開したんだ。でも、次第にワラキア公国にも疲弊の色が濃くなっていく。西暦1415年にはワラキア公ミルチャ老公がオスマン・トルコと講和を結び、貢納の義務を承認せざるを得なくなったんだ。 そして、西暦1418年、オスマン・トルコとの戦いの英雄だったワラキア公ミルチャ老公が亡くなった。以後、ワラキア公家は分裂し、ワラキア公の権威は失われていった。 |
カルパチアの真珠ミルチャ老公とは全く関係ない話なんだけど、カルパチア山脈が登場したついでに、カルパチアの真珠のこと。カルパチア山脈の最高峰ブチェジ山(標高 2,507m)の麓には、カルパチアの真珠と呼ばれるシナイアの村があるんだ。そこには、かつてヨーロッパ各地の貴族たちの別荘があったんだそうな。20世紀後半には、ルーマニアの独裁者となったチャウシェスク大統領の別荘もシナイアの村にあった。
右の画像は、シナイアの村に残るシナイア修道院。西暦1695年に建てられたもの。建立したのは、当時のワラキア公カンタクジノ。その頃のワラキア公国は、オスマン・トルコの属国になっていたんだけどね。
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