ナポレオンが地中海の要衝マルタ島を占領西暦1796年に始まるイタリア遠征で国民的な英雄となったナポレオンは、イタリアの次の目標をエジプトに定めた。フランスの宿敵であるイギリスを支えるエジプトとの通商を遮断することが狙いだった。西暦1798年5月、ナポレオンと兵たちを載せたフランス艦隊は、地中海を東に向かった。そのフランス艦隊が寄り道をしたのが、地中海の十字路とも言われるマルタ島だった。 当時のマルタ島を治めていたのは、16世紀にエーゲ海のロードス島から移ってきた聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団あるいはホスピタル騎士団)だった。 西暦1565年にはマルタ島を舞台にオスマン・トルコ軍と死闘を演じた聖ヨハネ騎士団。(下の画像は、聖ヨハネ騎士団がオスマン・トルコの大軍から守り抜いた聖アンジェロ城砦の朝の風景なんだ。)
ところが、オスマン・トルコの大軍を撃ち破ってから、長い長い歳月が流れていた。かつてはキリスト教の戦士集団だった聖ヨハネ騎士団もすっかり変質し、ナポレオン艦隊に対して何ら抵抗することもなく、マルタ島を明け渡してしまった。 余談ながら、拠点を失った聖ヨハネ騎士団は、西暦1834年からイタリアの首都ローマにあるコンドッティ通り(スペイン階段近く)に本部を置いている。 ナポレオンのエジプト遠征地中海の要衝マルタ島をなんなく占領したナポレオン艦隊は、やがてエジプトに到着。「ピラミッドの上から4000年の歴史が諸君を見下ろしている」と兵士を鼓舞したナポレオンは、敵をあっさりと撃ち破り、やがてカイロに入城した。(下の画像は、カイロ近くにあるギザの三大ピラミッド。)
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ネルソン提督のイギリス艦隊によるフランス艦隊撃滅
地元民の反乱も鎮圧し、オスマン・トルコが派遣した軍をも撃ち破ったナポレオンのエジプト遠征は大成功となるかと思えたんだけど、海軍力ではるかに勝るイギリスも負けてはいない。西暦1798年8月には、ホーレイショ・ネルソン提督指揮下のイギリス艦隊が、アレクサンドリアの沖合いでフランス艦隊を撃滅している。(右の画像は、イギリスの首都ロンドンにあるセント・ポール大聖堂の中のネルソン提督像。)
ナポレオンがフランスに帰国し、統領政府を樹立艦隊を失い、エジプトに孤立することとなったナポレオン。他方で本国フランスでは総裁政府が統治能力の無さを露呈していた。意を決したナポレオンは、軍をエジプトに残し(置き去りにしてというべきかな)、西暦1799年10月にフランスの首都パリに帰還したんだ。帰国したナポレオンは、彼と同じくクーデターを企んでいたシェイエスと手を組んだ。総裁政府の重鎮の一人だったシェイエスは、西暦1799年11月には議会を説得し、ナポレオンをパリ駐屯軍の司令官に任命させている。 そしてナポレオンを第一統領とする統領政府が成立したわけだ。これをフランス革命暦の日付にちなんで、「ブリュメール18日のクーデター」というらしいよ。 余談ながら、ナポレオンと手を組んだはずのシェイエスは、統領政府を構成する三人の統領の一人にもなれなかった。軍人ナポレオンをうまく丸めこんだつもりが、逆に上手く利用されちゃったみたい。ナポレオンもなかなかのタヌキだったんだね。そして、そのナポレオンの物語はまだまだ続いていくんだ。
ロゼッタ・ストーンの発見そうそう、忘れちゃいけないことが一つ。ナポレオンのエジプト遠征によって、古代史研究に大いなる前進がもたらされたんだ。それがロゼッタ・ストーンの発見。ロゼッタ・ストーンの発見によって、シャンポリオンによるエジプト古代文字の解読が可能になり、古代史研究が進んだんだからね。ちなみに、このロゼッタ・ストーンは、今はイギリスの首都ロンドンの大英博物館に展示されている。 関連書籍参考になる・・・かもしれない本を探してみました。
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