ヨーロッパの歴史風景 近代・現代編




西暦 1810年、フランス皇帝ナポレオンがハプスブルク家の皇女マリー・ルイーズと再婚した。


オーストリアのハプスブルク家と
フランス皇帝ナポレオンとの戦い

西暦1808年、スペインにおける泥沼の戦争に足を取られたナポレオンに対して、オーストリアのハプスブルク家が再び立ち上がった。

オーストリアの首都ウィーンの王宮の前に立つカール大公像 オーストリア皇帝フランツ1世の弟のカール大公(カルル大公)が、軍を率いてドイツ南部に進撃したんだ。(右の画像はオーストリアの首都ウィーンの王宮の前に立つカール大公の像。)

他方、フランス皇帝ナポレオンの許には、戦争に不慣れな新兵の部隊しか残されていなかった。ベテランの兵士たちは、民衆の抵抗で泥沼となったスペインで戦っていた。

それでもさすがに英雄ナポレオンだ。ドイツ南部のアーベンスベルク、エックミュールなどで連勝を重ね、オーストリア軍を圧迫していった。

ナポレオンのウィーン入城

そして西暦1809年5月には、ハプスブルク家のお膝元、オーストリア帝国の首都ウィーンに入城している。(下の画像の左側に写っているのがウィーンの王宮、右側にあるのはモーツァルトの像。モーツァルトは西暦1791年にウィーンで亡くなっている。)

オーストリアの首都ウィーンの王宮とモーツァルトの像 オーストリアの首都ウィーンの王宮とモーツァルトの像 オーストリアの首都ウィーンの王宮とモーツァルトの像 オーストリアの首都ウィーンの王宮とモーツァルトの像

ナポレオンは更にオーストリア軍に対する勝利を重ねていった。西暦1809年5月にはエスリンクで勝利、7月にはワグラムで勝利。さすがのオーストリアのハプスブルク家も戦いを続けることができなくなり、西暦1809年10月にはウィーン条約を結んで和平が成立したんだ。

フランス皇帝ナポレオンと
ハプスブルク家の皇女マリー・ルイーズとの再婚

フランス皇帝ナポレオンの肖像画 オーストリアとの和平を勝ち取ったナポレオンは、その年の12月に皇后ジョゼフィーヌと離婚している。

明けて西暦18010年4月、ハプスブルク家の皇女でオーストリア皇帝フランツ1世の娘マリー・ルイーズと再婚している。(マリー・ルイーズにとって、フランス革命後の西暦1793年に処刑された王妃マリー・アントワネットは大叔母にあたる。)

ヨーロッパを代表する名家であるハプスブルク家と縁を結んだナポレオンには、明けて西暦1811年に皇太子たるべきローマ王ナポレオン2世も生まれている。

しかし・・・

大国フランスの支配者として基盤を固めつつあるかに見えるナポレオン。しかし、その没落はそんなに遠いことじゃないことは、皆さんがご存知の通りだよね。

ちなみに、ナポレオンとマリー・ルイーズとの間に生まれたローマ王ナポレオン2世は、ナポレオン没落後はウィーンの王宮で育てられている。でも、西暦1832年には21歳の若さで亡くなってしまったんだ。(パリのアンヴァリッド 廃兵院にあるナポレオンのお墓の脇にナポレオン2世のお墓もある。)

そしてナポレオンの後継者たることを目指したのは、その甥だった。そして西暦1852年にフランス皇帝となったナポレオン3世は、フランスの首都パリの大改造を行い、フランス南部のニースを獲得したりしたんだ。でも、プロシアとの間の普仏戦争で捕虜となり、やがてはイギリスに亡命している。

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