ヨーロッパの歴史風景 近代・現代編




西暦 1852年、フランス皇帝ナポレオン3世が即位した。


ナポレオンの甥 ナポレオン3世がフランス皇帝に即位

西暦1804年にフランスの首都パリノートルダム大聖堂で戴冠式を挙げたフランス皇帝ナポレオン。その4年後の西暦1808年に皇帝の甥として生まれたのが、後のナポレオン3世だった。その父はナポレオンの弟でオランダ王のルイ・ボナパルト。母はナポレオンの妻ジョゼフィーヌの連れ子のオルタンス・ド・ボーアルネだった。

ところが、フランス皇帝ナポレオンが退位し、百日天下をも失い、ナポレオン3世と母はフランスを出ている。その後のナポレオン3世はドイツやスイスで成長している。(その間にナポレオンの息子のナポレオン2世が亡くなっている。)

成長してフランスに戻ったナポレオン3世は、西暦1830年のフランス七月革命によってルイ・フィリップを王として成立した七月王政に対して反乱を起こし、刑務所に入れられている。でも、その刑務所を脱獄し、イギリスの首都ロンドンに逃れたらしい。

そして西暦1848年のフランス二月革命の際に帰国し、その年12月の選挙によって大統領になっている。西暦1840年にフランス皇帝ナポレオンの亡骸がパリに帰還し、エトワール凱旋門をパレードし、アンヴァリッド 廃兵院ナポレオンのお墓が設けられていた。そんな栄光の皇帝ナポレオンのイメージもナポレオン3世に有利に働いたのは言うまでもないよね。刑務所に入っていたり、ロンドンに亡命したりして、政治的なキャリアが無いことも、むしろ新鮮なイメージにつながったみたい。

ところが、当時のフランスの大統領の任期は4年で、しかも再選は禁止されていた。つまり、大統領ナポレオン3世の任期は西暦1852年3月までだった。その任期満了も近づいた西暦1851年12月、大統領ナポレオン3世は軍を動員し、戒厳令を布告し、有力政治家たちを逮捕して、クーデターを実行したんだ。

支配を確立した大統領ナポレオン3世は、直ちに行われた国民投票を実行した。その結果、圧倒的な支持も獲得し、西暦1852年にナポレオン3世がフランス皇帝として即位したわけだ。

フランス皇帝ナポレオン3世のパリ改造

フランス皇帝となったナポレオン3世は、イギリスに遅れをとっていたフランスの産業の近代化を進めようとした。その為に鉄道を建設し、金融制度の改革を行ったらしい。

でも、フランス皇帝ナポレオン3世が残したものとして特記すべきは、セーヌ県知事として起用したオスマンに実行させたパリの改造だよね。

フランスの首都パリの中心シテ島の鳥市の様子

ナポレオン3世とオスマンのコンビは、パリの中心シテ島にあった貧民街を撤去し、その近代化を図ったんだ。(上の画像は今のシテ島で見ることの出来る鳥市の様子。)

更にはパリのオペラ座(オペラ・ガルニエ)を新しく建て、パリの西にはブローニュの森を整備し、直線的な広い大通りを作り、ガス灯も設置したらしい。つまりはフランスの首都パリを改造し、その近代化を進めたんだ。

ちょいと付け足しておきたいことがある。ナポレオン3世の取り組みの中心は近代化だったり産業基盤の整備だったりしたんだけど、それ以外にも特筆すべきことがある。フランス南部プロヴァンス地方の街ニームに水を供給する為に古代ローマ帝国時代に築かれたポン・デュ・ガールの水道橋の修復をナポレオン3世が命じたらしい。そのおかげで今も多くの人々がポン・デュ・ガールを見ることができるわけだ。

パリのモンマルトルの丘に集まった画家たち

フランス皇帝ナポレオン3世とセーヌ県知事オスマンによるパリ改造で困ったのが、貧乏画家たちだった。貧民街が撤去され、安アパートが取り壊されると、貧乏画家たちの居場所が無くなった。

そんな貧乏画家や売れない芸術家たちが移り住んだのは、当時はパリの外だったモンマルトルの丘だった。(その頃にはまだサクレ・クール寺院は無かったけどね。)

フランスの首都パリの北にあるモンマルトルの丘の画家

当時のモンマルトルの丘にはブドウ畑が広がり、ワインを飲ませる飲み屋も多く、絵になる風景も残っていた。しかも、アパートの家賃もパリ市内と比べれば安かった。というわけで、モンマルトルの丘に画家たちが集まったらしい。(上の画像は今もモンマルトルの丘でキャンバスを広げる画家。)

そんなモンマルトルの丘にしてくれたのも、パリの改造をしてくれたナポレオン3世とオスマンのコンビだったというわけだ。(但し、19世紀に入るとモンマルトルの丘は高級住宅地となり、ブドウ畑も少なくなり、多くの画家たちはモンパルナスなどへ移ったらしいけどね。)

ニースを得たフランス皇帝ナポレオン3世

地中海の海辺のニース(下の画像)といえば、フランス南部の代表的な観光地あるいは保養地のイメージだよね。そのニースの海岸通の眺めが下の画像なんだ。

フランス南部にあるニースの海岸通

このニース、歴史的にはフランスに属してはいなかったんだ。フランス皇帝ナポレオン3世が即位した時点では、サルディニア王国に帰属していた。でも、そのサルディニア王国は分裂していたイタリアを統一するために、ニースなどをフランスに譲る代わりに支援を求めてきた。

ナポレオン3世はそれに応じ、オーストリア軍と戦った。そして西暦1860年、見返りとしてニースはサルディニア王国からフランスに譲られたというわけだ。他方で西暦1861年には統一イタリア王国が成立している。

ちなみに、ニースと一緒にサルディニア王国はモナコ公国の保護権をフランスに譲っている。しかし、モナコ公国はエズ村など周辺地域をフランスに割譲し、他方でフランスはモナコ公国の主権を承認しているんだ。この辺りは国境線も微妙だけど、歴史的な経緯もややこしいよね。

普仏戦争でのフランスの敗北と皇帝ナポレオン3世の降伏

そして西暦1870年、プロシアのビスマルクの計略によって起こった「エムス電報事件」によって、プロシアとフランスとの関係は極度に悪化してしまった。そんな状況でフランスはプロシアに宣戦を布告したわけだ。

ところが、それをプロシアのビスマルクは待っていた。プロシアのみならずドイツ諸侯の軍をも併せて倍近い兵力を準備していたプロシアに完敗し、皇帝ナポレオン3世の率いるフランス軍は降伏せざるを得なかったんだ。

普仏戦争に勝ったプロシアはドイツ帝国を成立させ、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿の鏡の間でドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の戴冠式が行われた。他方で、占領されたパリではドイツ軍がエトワール凱旋門を通ってパレードをしたらしい。

フランス東部アルザス地方の街ストラスブールのプチ・フランス地区の風景

更にフランス東部のアルザス地方の殆どとロレーヌ地方の一部はドイツ帝国に割譲されてしまったんだ。(上の画像はアルザスの街ストラスブールのプチ・フランス地区の眺め。)

他方のフランス皇帝ナポレオン3世はドイツ軍の捕虜となり、やがてイギリスに亡命して西暦1873年に亡くなったらしい。

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