ヨーロッパの歴史風景 近代・現代編




西暦1881年、ルーマニア王国が成立し、オスマン・トルコの宗主権を脱して独立した。


ルーマニアのカルパチア山中の
森の中にあるペレシュ宮殿

カルパチア山中の森の中にあるペレシュ宮殿(ルーマニア) ルーマニアの中央部、カルパチアの真珠とも称されるシナイアの村の奥、森の中にたたずむ宮殿がある。それが右の画像にあるペレシュ宮殿

この宮殿が何故にこのページに登場するかといえば、西暦1881年に成立した近代ルーマニア王国の初代国王カロル1世が離宮として建てさせた宮殿だから。つまりは、ルーマニア王国ゆかりの建物というわけだ。

ルーマニア公国・王国と
オスマン・トルコからの独立

15世紀の後半、当時のルーマニアはワラキア公国、モルドヴァ公国、トランシルヴァニア公国に分かれていた。その中でもワラキア公国は、串刺し公ヴラッド・ツェペシュを指導者に、侵攻してくるオスマン・トルコに激しく抵抗していたんだ。

ところが西暦1477年、串刺し公ヴラッド・ツェペシュが亡くなった。その後、ワラキア公国は次第にオスマン・トルコの属国となっていったんだ。それから数百年間に渡ってオスマン・トルコの支配下にあったルーマニアが目覚めたのは、19世紀に入ってからのことだった。

南下するロシア帝国との戦いによってオスマン・トルコが弱体化したのを利用して、ワラキアとモルドヴァが統一されて成立したのがルーマニア公国。西暦1862年のことだった。

カルパチア山中の森の中にあるペレシュ宮殿(ルーマニア) 西暦1866年にはクーデターによって初代ルーマニア公アレクサンドル・ヨアン・クーザが退位した。

そこで登場したのが、プロシア王(後のドイツ皇帝)ヴィルヘルム1世やフランスのナポレオン3世とも親戚関係にあるドイツ貴族ホーエンツォレルン・ジグマリンゲン家のカールだった。彼は第二代ルーマニア公カロル1世として即位した。

西暦1877年には、再びロシア帝国とオスマン・トルコとが戦いを始めた。その翌年に成立したサン・ステファノ条約により、ルーマニア公国のオスマン・トルコからの独立が公式に認められたんだ。

そして西暦1881年、ルーマニア議会の議決によって、ルーマニア王国が成立した。初代国王は、カロル1世だった。

余談ながら、この初代ルーマニア国王カロル1世なんだけど、ただの貴族のお坊ちゃんというわけでもないみたい。西暦1877年のオスマン・トルコとロシア帝国との戦いの際には、自ら軍を率いてオスマン・トルコ部隊と戦ったらしい。

ペレシュ宮殿内部(ルーマニア)

話をシナイアの森の中にたたずむペレシュ宮殿に戻そう。この宮殿の観光が実は簡単じゃないんだ。保存のために一日の入場者数を500名に限定しているから。

カルパチア山中の森の中にあるペレシュ宮殿の内部(ルーマニア)

ついでながら、宮殿の中ではカメラの使用は禁止。というわけで、上の画像はペレシュ宮殿の絵葉書からのもの。残念ながら。

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