フランス王家とイタリア戦争西暦1264年、カペー朝フランスの聖ルイ王(ルイ9世)の弟でアンジュー家のシャルルが、ローマ教皇からナポリ国王とされた。ところが、西暦1442年にアラゴン家のシチリア王アルフォンソ1世がナポリを征服した。イタリア南部にあるナポリを失ったアンジュー家なんだけど、その子孫のシャルルが西暦1481年に遺言を残して亡くなった。その遺言によれば、アンジュー家が権利を持つプロヴァンスとナポリ王国を、親戚であるヴァロア家のフランス王ルイ11世譲るというんだ。 そこから15世紀末から16世紀半ばにかけて、歴代のフランス王がイタリアを支配しようと戦った「イタリア戦争」が始まるわけだ。(下の画像はイタリア南部の都市ナポリとポンペイを埋没させたヴェスヴィオ火山の眺め。)
フランス王シャルル8世によるイタリア遠征アンジュー家の遺産を相続したフランス王ルイ11世が亡くなり、その息子シャルル8世がフランス王位を相続した。このシャルル8世は、相続したナポリを本当に征服しようと西暦1494年からイタリアに遠征を始めたんだ。分裂していたイタリア諸国を圧倒したフランス王シャルル8世の軍は順調にイタリアを南下し、ローマを通過して、西暦1495年にはナポリを征服。シャルル8世の野望はかなえられた・・・と思ったところ、彼のイタリアでの影響力の増大に反発したイタリア諸国が団結し、フランス王シャルル8世はナポリ王国を維持することができなかったんだ。 フランス王ルイ12世が抱いたイタリアへの野望
イタリアに野望を抱きつつも挫折したフランス王シャルル8世がイタリアに派遣した軍の先発隊の指揮官は、シャルル8世の親戚にあたるオルレアン公ルイだった。西暦1498年にフランス王シャルル8世が亡くなった時、王位を継承したのはオルレアン公ルイ(即位してルイ12世)だったんだ。(右の画像はフランス王ルイ12世の騎馬像。) フランス王ルイ12世は、シャルル8世と同じく、イタリアへの野心を抱いていた。それもアンジュー家から継承したナポリ王国への権利だけじゃなくて、ミラノ公国への権利も主張していた。 というのも、彼の祖母はかつてのミラノ公国の支配者ヴィスコンティ家の出身者であり、そのミラノ公国は傭兵上がりのスフォルツァ家によって簒奪されていたからね。(下の画像は、イタリア北部の街ミラノに残るスフォルツァ家ゆかりのスフォルツェスコ城。)
フランス王ルイ12世によるミラノ・ナポリ占領フランス王に即位したルイ12世は、まず外交的な手を打った。つまり、当時のローマ教皇アレッサンドロ6世とその子チェーザレ・ボルジアのみならず、地中海の覇者ヴェネツィアとも手を結んだわけだ。その上でフランス王ルイ12世の軍は、西暦1499年にアルプスを越えてイタリアへなだれ込んだ。ミラノ公爵ロドヴィコ・スフォルツァは敗れてスイスに逃れた。翌年には一時ミラノ公爵ロドヴィコ・スフォルツァがミラノを奪還したけれども、フランス軍はミラノ軍を撃ち破ってミラノ公爵を捕虜にしている。 更に、スペインと共同したルイ12世は、イタリア南部のナポリまでも占領し、西暦1501年にはナポリ王フェデリーコからナポリ王位を譲られたんだ。ところがフランスはスペインと仲たがいをしてしまった。その結果、西暦1503年にはナポリはスペインに奪われてしまった。 |
フランス王ルイ12世の挫折とミラノ放棄一度は手にしたナポリを失ったフランス王ルイ12世は、西暦1509年に再びイタリアに遠征している。でも、神聖同盟を結成したローマ教皇ユリウス2世によって軍の行く手を阻まれてしまう。ルイ12世の甥で名将と称されるガストン・ド・フォアの指揮によりイタリアで戦い続けたフランス軍。しかし、西暦1512年4月、22歳の指揮官ガストン・ド・フォアがラヴェンナの戦いで戦死してしまう。 その翌年の西暦1513年、フランスと関係諸国との間に休戦条約が結ばれ、フランス王ルイ12世はミラノを放棄せざるを得なくなったんだ。その2年後、フランス王ルイ12世が亡くなった。その後もフランス王はイタリアへの野望を抱き続けるんだけどね。 ロワール川のほとりのブロワ城結局は虚しくイタリア戦争を戦い続けたフランス王ルイ12世。でも、彼が残したものが今でもフランスを代表する観光名所の一つとなっているんだ。それがフランス北西部を流れるロワール川のほとりに立つブロワ城(下の画像)。この城をゴシック様式に改築したのがルイ12世なんだそうな。
ついでながら、このページに載せたルイ12世の騎馬像も、ブロワ城の城門に据えられているものなんだよ。
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