ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1515年、ハプスブルク家のカール5世の宿敵フランス王フランソワ1世が即位。


ルイ12世の王女と結婚したフランス王フランソワ1世

フランス王ルイ12世には王子が生まれず、二人の王女が生まれただけだった。その王女の一人クロード・ド・フランスと結婚したのが、ルイ12世の従兄の息子のフランソワだった。そして西暦1515年、先にミラノ支配を放棄して失意に陥っていたフランス王ルイ12世が亡くなり、娘婿がフランス王フランソワ1世として即位した。

フランスのロワール川のほとりのブロワ城で見たフランソワ1世の紋章サラマンダー(火トカゲ)

上の画像の左側に見えているのは、フランス王フランソワ1世の紋章のサラマンダー(火を吐くトカゲ)、その右側にはルイ12世の王女でフランソワ1世の王妃のクロード・ド・フランスの紋章の白イタチ。(ロワール川のほとりのブロワ城で見たもの。)

余談ながら、王妃クロード・ド・フランスの侍女の中には、後にイングランド王ヘンリー8世の王妃となり、やがてロンドンテムズ川のほとりのロンドン塔に幽閉されて処刑されたアン・ブーリンがいた。ルイ12世が亡くなる直前に三人目の王妃としてイングランド王ヘンリー7世の王女と結婚したから、そんな関係でイングランド人がフランス王家の侍女になっていたのかな。

イタリアに攻め込んだフランス王フランソワ1世とダヴィンチ

イタリアのミラノのスカラ座前に立つレオナルド・ダヴィンチ像 先々代のフランス王シャルル8世や義父のルイ12世からイタリア支配の野望をも継承したフランソワ1世は、即位の年から直ちにアルプスを越えてイタリアに攻め込んでいる。

その年の9月にはマリニャーノの戦いに勝ち、ルイ12世が失ったミラノを奪い返し、幸先の良いスタートを切ったんだそうな。

しかも、フランソワ1世はミラノから「最後の晩餐」で名高いレオナルド・ダヴィンチをフランスへ連れ帰った。(右の画像はミラノに立つレオナルド・ダヴィンチの像。)

その時、ダヴィンチは彼の代表作の一つ「モナリザ」を携えていた。だから私たちはフランスの首都パリルーブル美術館で「モナリザ」を見ることができるわけだね。

ついでながら、フランスに来たダヴィンチは、フランス王フランソワ1世の狩猟の為の館だったシャンボール城を設計した ・・・ かもしれないと言われているんだそうな。どうも確かなところはわからないみたいだけどね。

ハプスブルク家のカール5世とフランス王フランソワ1世との戦い

イタリア北部に拠点を得たフランス王フランソワ1世。更に彼は神聖ローマ帝国の皇帝を選ぶ選挙にも名乗りをあげたんだ。結局はハプスブルク家のスペイン王カルロス1世(皇帝カール5世)がアウクスブルクの豪商フッガー家の資金を借りてフランソワ1世を破り、西暦1519年に神聖ローマ皇帝に選ばれたんだけどね。

最後には勝利を得たものの、ハプスブルク家のカール5世にとって、フランス王フワンソワ1世は許し難い敵だよね。伝統的に神聖ローマ帝国の勢力範囲にあったイタリア北部を脅かしたのみならず、皇帝の位をも奪おうとしたんだからね。

というわけで二人の対決は避けられるはずもない。そんな二人が激突したのが西暦1525年のパヴィアの戦い。この戦いにフランス王フランソワ1世は敗れ、しかもハプスブルク家のカール5世の捕虜になっちゃったんだ。

こうなってはフランス王フランソワ1世も妥協せざるを得ない。西暦1526年のマドリッド条約でミラノやジェノヴァの放棄などをハプスブルク家の皇帝カール5世に約束して、ようやく自由を回復することができた。

ところがフランス王フランソワ1世はまったく食えない男だった。宿敵ハプスブルク家のカール5世との約束なんて守るつもりはない。フィレンツェメディチ家出身のローマ教皇クレメンス7世と同盟し、再びイタリアを狙い始めたんだ。

フランス王フランソワ1世の執念と挫折

そんな男と同盟したのが悪かったのか、とんだトバッチリを受けたのがローマ教皇クレメンス7世だった。西暦1527年、カール5世の神聖ローマ帝国の軍がイタリアの都ローマを襲い、ローマ教皇クレメンス7世はサンタンジェロ城から数ヶ月も出ることができなかった。

結局はハプスブルク家のカール5世を撃ち破ることができないフランス王フランソワ1世なんだけど、ちょっとやそっとで諦めるような王様じゃなかった。キリスト教徒の敵ともいえるオスマン・トルコのスレイマン大帝(1世)をけしかけて、オスマン・トルコ軍にハプスブルク家の都ウィーンを攻囲させることまでしているんだ。

それどころか、フランソワ1世は、フランス南部プロヴァンス地方にあるマルセイユの港を、基地としてオスマン・トルコ艦隊に使用させている。そのオスマン・トルコ艦隊はイタリア南部のアマルフィなどを襲撃したりしているんだ。(ついでながら、プロヴァンス伯ルネ・ダンジューからフランス王家が継承するまで、プロヴァンス伯領は神聖ローマ帝国の域内だった。)

それでもフランス王フランソワ1世はハプスブルク家の皇帝カール5世を撃ち破ることはできなかった。西暦1544年にはクレピーの和約でイタリア南部のナポリを放棄させられている。それから3年後の西暦1547年、ハプスブルク家のカール5世の宿敵だったフランス王フランソワ1世が亡くなった。

ロワール川のほとりのブロワ城とフランス王フランソワ1世

そんなこんなで戦争ばかりしていたフランス王フランソワ1世なんだけど、レオナルド・ダヴィンチをフランスに連れ帰ったのみならず、今のフランスに貴重な観光資源を残している。

フランスのロワール川のほとりのブロワ城に残るフランソワ1世の螺旋階段

その一つがブロワ城に新しい翼と螺旋階段(上の画像の右側)かな。ちなみに、このブロワ城は元々は王妃クロード・ド・フランスの父のルイ12世の祖父のオルレアン公ルイ(百年戦争時代にブルゴーニュ公ジャン無畏公に暗殺された)が所有していたもの。だからフランソワ1世というよりも王妃にとっての実家という感じだったのかもしれないね。

だからかどうかわからないけれども、西暦1524年に王妃クロード・ド・フランスが亡くなると、フランス王フランソワ1世はブロワ城にはあまり滞在しなくなったんだそうな。

フランスの首都パリのルーブル宮殿(今の美術館)

他方で、フランソワ1世はフランスの首都パリのルーブル宮殿(今の美術館)をルネサンス風に改装したらしい。(下の画像はパリのオルセー美術館のテラスから眺めたセーヌ川とルーブル美術館の眺め。)

フランスの首都パリのオルセー美術館のテラスから眺めたセーヌ川とルーブル美術館

更に、フランス西部ロワール川の近くに立つシャンボール城も元々はフランソワ1世の狩猟のための館として建てられたものなんだそうな。

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