|
|
|
|
|
|
|
西暦1531年、宗教改革に関するスイスの内戦(第二次カペル戦争)でツヴィングリが戦死。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
人文主義者 エラスムス
ルターが「95か条の論題」を提示して宗教改革の口火を切ったのは西暦1517年なんだけど、その前に後の宗教改革に大きな影響を与えた人物が重要な出版を行っている。
それが人文主義者エラスムスだった。彼は西暦1516年にバーゼルにおいて「校訂新約聖書」を出版している。エラスムスは誰もが聖書を読んで聖書に基づく暮らしを送ることが出来るようにと考えていたんだ。その点ではルターの万人祭司主義の先駆者といえるみたい。
ちなみに下の画像は、エラスムスが新約聖書を出版したバーゼルにあるミュンスターの中庭の様子。かつてエラスムスもこの中庭を歩きながら宗教について考えたかもしれないね。(但し、エラスムスはローマ教皇庁の権威を否定するところまでは行かなかった。)
|
なお、上に掲載したバーゼルのミュンスターの中庭の画像なのですが、このサイトの本館「ヨーロッパ三昧」の読者である Kaoringo さんが送ってくれたものなのです。御本人の御了解を得て掲載させていただきました。Kaoringo さんに感謝 !!
|
スイスにおける宗教改革の先駆者 ツヴィングリ
そんなエラスムスの人文主義的な考え方を勉強していたのが、後にスイスにおける宗教改革の先駆者となるツヴィングリだった。
やがてツヴィングリは西暦1519年にチューリヒにおいて司祭となり、新約聖書の読解を始めたんだ。(下の画像はチューリヒの街の風景。)
宗教改革に乗り出したチューリヒ
ツヴィングリの活動の成果か、西暦1523年にチューリヒは宗教改革に乗り出すことを決定し、聖職者達は聖書によって証明できることのみを説教すべきこととした。(つまり、イタリアのローマに拠点を置き、聖書にも書いていないことを命ずる教皇庁のような権威は認めないということ。)
更にチューリヒは西暦1524年には教会から聖画像を撤去し、その翌年にはミサさえも廃止してしまった。
スイスにおける反宗教改革の動き
しかし、スイス全体が宗教改革に賛成していたわけではなかったんだ。ルツェルンなどのカトリック勢力の強い五つのカントンは、反宗教改革の歩調をとることを西暦1524年に確認している。(下の画像はカトリックの牙城ルツェルンの大聖堂の内部。)
しかも、西暦1526年にはスイス盟約者同盟の会議においてカトリックが多数派を占め、ツヴィングリの破門と教会からの追放が決議されてしまった。スイスにおける宗教改革の先駆者ツヴィングリは孤立していたわけだ。
スイスにおける宗教改革勢力の拡大
カトリック多数派の前に孤立していたツヴィングリとチューリヒだったけど、次第に情勢が変わっていった。西暦1527年にはザンクト・ガレンやコンスタンツも宗教改革に乗り出した。翌年にはベルン、バーゼル、シャフハウゼンなども宗教改革に動き出したんだ。
スイスにおいて宗教改革に乗り出したプロテスタント派のカントンは「キリスト教都市同盟」を結成し、対するカトリック派のカントンは「キリスト教連合」を結成。両者がにらみ合う状況となってしまった。
宗教改革をめぐるスイスの内戦と 先駆者ツヴィングリの戦死
やがて西暦1529年、プロテスタント勢力の中心チューリヒがカトリック勢力に対して宣戦布告を行い、第一次カペル戦争が始まった。但し、この内戦は中立を保っていたグラールスが仲介に乗り出し、戦闘が始まる前に和平が成立したんだけどね。
ちなみに、この年、チューリヒの宗教改革を指導するツヴィングリとドイツの宗教改革をリードするルターがマールブルクの宗教会談を行っている。結果的に神学における意見は一致しなかったらしいんだけど。
明けて西暦1530年、チューリヒ、ベルン、バーゼルなどのプロテスタント勢力は、アルザスの中心都市ストラスブールやヘッセン方伯と同盟を結んでいる。(右の画像はストラスブール大聖堂の内部。)
そして西暦1531年に再び情勢が緊迫し、第二次カペル戦争が始まり、自ら戦場に出陣した宗教改革の指導者ツヴィングリが戦死してしまった。
やがてプロテスタントとカトリックとの間に和平が成立し、カトリックとプロテスタントが相互に容認することとなった。但し、戦いを優勢に進めていたカトリック側に有利な和平の条件だったらしいけど。
|