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西暦193年、パンノニア軍団に推戴されたセプティミウス・セウェルスが古代ローマ帝国皇帝に即位した。
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初のアフリカ出身の古代ローマ皇帝 セプティミウス・セウェルス
後に初のアフリカ出身の古代ローマ皇帝となるセプティミウス・セウェルス(右の画像はロンドンの大英博物館にある彼の彫像)は、西暦145年4月11日に現在のリビアで生まれた。地元の名家の出身だったらしい。
やがて、彼は古代ローマ帝国の元老院の議員となった。五賢帝の最後を飾るマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の許で執政官をしていた従兄の引きのおかげだった。
やがて五賢帝の時代が終わり、皇帝コモドゥスの時代となっても、セプティミウス・セウェルスは出世を続けた。シリアで軍団の司令官となり、あるいはフランス・シシリア・パンノニア(現在のハンガリー)などの総督職を歴任している。
西暦187年には、シリアの神官の娘ユリア・ドムナと二度目の結婚(先妻は死別)をしている。彼女は「王と結婚する」と言われていたらしい。翌年には長男バシアヌス(後のカラカラ)、その次の年には次男ゲタが生まれている。
西暦193年3月28日、当時の古代ローマ皇帝ペルティナクス帝が殺された。4月9日、パンノニア(現在のハンガリー)においてセプティミウス・セウェルスが古代ローマ帝国皇帝として推戴された。彼はライン川やドナウ川付近に駐屯していた軍団の支持を受けていた。
ライバル達との戦い
直ちにセプティミウス・セウェルスは軍団を率いてイタリアに進軍を始めた。当時のローマは、同様に皇帝を称していたディディウス・ユリアヌスによって支配されていた。
しかし、パンノニア軍団が接近するにつれて、ディディウス・ユリアヌスの軍団は動揺し、やがて彼は兵士たちによって殺害されてしまった。その結果、セプティミウス・セウェルスはローマを掌握し、皇帝としての地位を固めることができた。
その年(西暦193年)の暮から翌年にかけてセプティミウス・セウェルス帝は、シリアを拠点として皇帝を称していたペスケンニウス・ニゲルを撃ち破り、戦死させている。(但し、ニゲルの拠点のひとつだったビザンティオンは更に一年間も抵抗を続けた。)
西暦195年の暮には、ブリテン(現在のイギリス)の総督だったクロディウス・アルビヌスが皇帝を称してガリア(現在のフランス)に軍を進めた。セプティミウス・セウェルスは、西暦197年2月19日にリヨン付近でクロディウス・アルビヌスを撃ち破り、彼を自殺に追い込んでいる。
ローマのフォロ・ロマーノに残る セプティミウス・セウェルスの凱旋門
かくして、皇帝を称するライバル達を撃ち破り、権力を確立した皇帝セプティミウス・セウェルスは、イタリアの首都ローマの一画にあるフォロ・ロマーノに「セプティミウス・セウェルスの凱旋門」(下の画像)を残している。
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