かつてイタリアに栄えた古代エトルリアイタリアの西に広がる海を、ティレニア海というよね。この名前の意味を知っているかな ??
話は古代ローマが栄える前の時代に遡るんだけど、古代ギリシャ人はエトルリア人のことをティレノイと呼んだ。そのティレノイにちなんで名づけられたティレニア海は、つまり古代エトルリア人の海だったんだ。 世界史の時間では敵役のエトルリア人世界史の授業での最初のハイライトといえば、古代ローマ帝国かな。エトルリア人の王によって支配されていた古代ローマが王を追放して民主政を打ちたて、やがては地中海を制覇していくわけだ。やがて消えていくエトルリア人は気の毒な役回りを演じている。まるで、鎌倉幕府を打ち立てた源氏に対して、「驕る平氏は久しからず」みたいな役回りだよね。 ところが、古代のエトルリアは、東方の文化を取り入れ、都市国家を建設し、鉱山を開発して青銅や鉄の道具を作り、イタリア最初の文化を作り上げた功労者なんだ。もうちょっと注目してあげても良いと思うんだけどね。 ローマにあるヴィラ・ジュリア博物館
そんな可哀相な役回りのエトルリア人が主役の座を与えられる数少ない舞台の一つが、右の画像にあるヴィラ・ジュリア博物館。イタリアの首都ローマにあるボルゲーゼ公園の中にあるこの博物館には、エトルリアにまつわる出土品が集められているんだ。ここからは、ヴィラ・ジュリア博物館で見たエトルリア関係の出土品の画像と一緒に、エトルリアの歴史を紹介するね。
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イタリアに栄えた古代エトルリアヘロドトスは、エトルリア人のことを海を渡ってきた人々だと言っている。また、古代ギリシャに滅ぼされたトロイ人の末裔がエトルリア人だと言う人々もいるよね。でも、現在ではエトルリア人はイタリア土着の人々だったと考えられている。
紀元前9世紀、イタリアの中部から南部にかけて、ヴィッラ・ノーヴァ文化が栄えた。ヴィッラ・ノーヴァというのは、ボローニャ近くの土地の名前なんだけど、これが初期のエトルリア文化なんだ。(右の画像は紀元前6世紀後半のゴルゴンの頭像。)
紀元前8世紀には、サルディニア島とシシリア島にフェニキア人が、イタリア南部にギリシャ人が進出してきた。当然、彼らとエトルリア人は接触する。その頃、ギリシャ文字とフェニキア文字を借用して、エトルリア文字が作られたんだ。 紀元前7世紀、東方文化との接触の影響で、エトルリアに都市国家が生まれた。当時のエトルリア人は、鉱山を開発し、青銅や鉄の製品を作って貿易を行っていた。その貿易を通じて、東方文化と接触したわけだ。
紀元前616年、エトルリア人が古代ローマの王となった。その周辺のラツィオ地方もエトルリアの支配下に入った。(右の画像は、紀元前6世紀後半のアポロ像。)紀元前6世紀、同盟を結んだカルタゴとエトルリアが、地中海西部の制海権を握った。エトルリア人は南北に進出し、北のポー川流域や南のカンパーニャ地方にも都市を建設した。他方、カルタゴとエトルリアの連合艦隊が、コルシカ島に建設されたギリシャ系都市を滅亡させた。 勃興する古代ローマと衰退するエトルリア紀元前509年、古代ローマにおいて、エトルリア人の王が追放された。エトルリア人の支配下にあったローマ周辺のラツィオ地方も古代ローマの支配下に落ち、エトルリアの本拠とカンパーニャ地方のエトルリア系諸都市との陸上交通が遮断された。紀元前474年、エトルリアがクマエの海戦に敗れて艦隊を失い、ティレニア海の制海権を失った。その結果、トスカナ地方にあったエトルリアの本拠とカンパーニャ地方のエトルリア系諸都市との交通が途絶え、貿易が衰退した。また、カンパーニャ地方のエトルリア系諸都市は山岳系の異民族に征服された。 紀元前400年頃、北からガリア人の侵入が始まり、エトルリアの衰退が加速された。更に、西暦396年には、古代ローマによってエトルリアの都市ヴェイオが破壊された。またティベレ河畔にあったエトルリアの塩田も古代ローマに奪われた。 紀元前310年、古代ローマによるエトルリアへの侵攻が始まった。エトルリアの諸都市は次々と陥落し、やがてエトルリアは古代ローマの支配下に入った。 紀元前88年、エトルリア人が古代ローマの市民権を獲得した。紀元前27年、エトルリアは皇帝アウグスティヌス支配下の古代ローマ帝国の行政区の一つとなった。西暦20年、公文書からエトルリア文字が消えた。やがて、古代エトルリア人たちは古代ローマ人に同化していった。 下の画像は、紀元前6世紀後半にエトルリアで作られたテラコッタ製の「夫婦の棺」。まるで古代エトルリアの棺にも見えるね。
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