ヨーロッパの歴史風景 中世編




西暦800年、フランク王国のカール大帝(シャルルマーニュ)が西ローマ帝国の皇帝として戴冠。


フランク王国のカール大帝(シャルルマーニュ)

ヨーロッパの歴史の中で英雄とされる人物は少なくないよね。その中でも古代ヨーロッパの英雄といえば、アレキサンダー大王シーザー(カエサル)かな。近代ヨーロッパの英雄といえばフランス皇帝ナポレオンだよね。では、ヨーロッパの中世を代表する英雄といえば、 ・・・ フランク王国のカール大帝(シャルルマーニュ)だよね。

イタリアのローマのヴァティカンにあるサン・ピエトロ大聖堂の中で見たカール大帝(シャルルマーニュ)の騎馬像

上の画像はそのフランク王国のカール大帝(シャルルマーニュ)の騎馬像なんだけど、イタリアの首都ローマのヴァティカンにあるサン・ピエトロ大聖堂で見たものなんだ。

西ローマ帝国の皇帝として戴冠したカール大帝(シャルルマーニュ)

西暦768年に父親の小ピピン(ピピン3世)が亡くなり、カール(後の皇帝)とカールマンの二人の兄弟が共同でフランク王となった。でも、西暦711年には弟のカールマンが亡くなり、カールが単独でフランク王国の支配者となっている。

西暦774年にはローマ教皇ハドリアヌス1世を圧迫していたランゴバルド王国の王を撃ち破り、ミラノを降伏させ、ローマ教皇を保護している。加えて小ピピン(ピピン3世)古都ラヴェンナを教皇に寄進したと同様に、カールもボローニャなどイタリア中部の土地を教皇に寄進したらしい。

そして西暦799年、ローマ教皇レオ3世に対する暗殺未遂事件が起こった。貧しい身分から教皇となったレオ3世に敵対する勢力による陰謀だったらしい。教皇レオ3世はフランク王国の王カールの下に逃げ込み、その庇護の下にローマに復帰している。

翌年の西暦800年のクリスマス、教皇によるミサに参列するためにフランク王国の王カールはヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂にやって来た。教皇はそのカールを西ローマ帝国の皇帝として戴冠させたんだ。ここにフランク王国の王がカール大帝(シャルルマーニュ)となったわけだ。

イタリアのローマのヴァティカンにあるサン・ピエトロ大聖堂の内部

上の画像は今のヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂の内部の様子。但し、今のサン・ピエトロ大聖堂の建設は西暦1506年に始まったものだから、カール大帝の時代の建物とは異なるけどね。カール大帝の時代のサン・ピエトロ大聖堂は、古代ローマ帝国皇帝コンスタンティヌスによって建てられたものだね。

ちなみに、ヴァティカン美術館・博物館の中の火災の間では、ラファエロ工房によって制作された絵画「カール大帝の戴冠式」を見ることが出来るんだ。ラファエロの死後に弟子たちによって仕上げられた作品だけどね。

カール大帝(シャルルマーニュ)の征服戦争

フランク王国のカール大帝(シャルルマーニュ)は、父の小ピピン(ピピン3世)から王位を継承して数年後から征服戦争を始めている。その手始めが西暦772年に行ったザクセンへの遠征だった。次いで西暦774年にはローマ教皇を圧迫していたランゴバルド王国を征服している。

西暦778年には今のスペイン北東部カタルーニャ地方に遠征している。ちなみに、彼の父親の初代カロリング朝フランク王 小ピピン(3世)フランス南部プロヴァンス地方に遠征し、ニームなどを占領し、更には後ウマイヤ朝からナルボンヌの街を奪ったりしていたんだ。

当時のスペインは、西暦711年にジブラルタルから侵入したイスラム教徒に征服され、スペイン南部アンダルシア地方古都コルドバに首都を置く後ウマイヤ朝の支配下にあった。ちなみに、そのスペインへの遠征の帰路の出来事が「ローランの歌」を生んでいる。

西暦782年には再びザクセンに遠征。西暦785年にザクセンを征服し、その族長ヴィドゥキントをキリスト教に改宗させている。更に西暦791年には今のハンガリーにいたアジア系のアヴァール人を撃ち破っている。その後も何度か亜ヴァール王国に遠征し、西暦796年にはアヴァール王国を征服している。教皇レオ3世によって皇帝とされたのはその4年後のことだった。

皇帝として戴冠した翌年の西暦801年にはバルセロナ(今のスペイン北東部カタルーニャ地方の州都)を征服し、フランク王国のスペイン辺境領に組み込んでいる。(下の画像はガウディの聖家族教会の塔の上から眺めたバルセロナの街並み。)

スペイン北東部カタルーニャ地方の州都バルセロナの聖家族教会から眺めた市街

余談ながら、カール大帝のスペイン辺境領はやがてカタルーニャ伯領となるんだけど、10世紀末にイスラム教徒の指導者アル・マンスールによるバルセロナに対する攻撃の際にフランク王国は救援を送らなかった。それを契機にカタルーニャ伯領はフランク王国から独立することになるんだ。

但し、フランス王が名実共にカタルーニャに対する上級領主権を放棄したのは、西暦1258年にフランス王ルイ9世(聖ルイ王)アラゴン王ハイメ1世との間に結ばれたコルベイユ条約においてであった。

フランク王国のカール大帝(シャルルマーニュ)と東ローマ帝国

そんなこんなで西ヨーロッパのかなりの部分を支配したフランク王国のカール大帝(シャルルマーニュ)だった。でも、ローマ教皇がカール大帝(シャルルマーニュ)に与えた西ローマ帝国皇帝という地位を東ローマ帝国は認めていなかったんだ。

カール大帝は東ローマ帝国と交渉を続けた。その結果、西暦812年に東ローマ帝国がカール大帝を皇帝として認めている。但し、ヴェネツィアを割譲することが条件だった。(下の画像はイタリアの水の都ヴェネツィアの朝の風景。)

イタリアの水の都ヴェネツィアの朝

その2年後、中世ヨーロッパの英雄 フランク王国のカール大帝(シャルルマーニュ)が亡くなった。その遺骸はアーヘンの大聖堂に埋葬された。

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