ヨーロッパの歴史風景 中世編




西暦1170年、イングランドのカンタベリー大聖堂で、大司教トマス・ベケットが殺害された。(イギリス)


イングランド王ヘンリー2世と大司教トマス・ベケット

イングランド王ヘンリー2世にとって、後にカンタベリー大司教となるトマス・ベケットは、側近ともいえる存在だった。イギリスの首都ロンドンの商人の息子として生まれ、イタリアのボローニャにあるヨーロッパ最古の大学で学び、カンタベリー大聖堂の助祭となっていたトマス・ベケットは、やがて大法官としてイングランド王ヘンリー2世に仕えることとなった。あるときはヘンリー2世の使者としてフランス王ルイ7世と和平交渉を行い、またあるときは騎士たちを率いてフランスで戦い ・・・ 。

イギリス南部にあるカンタベリー大聖堂

そして西暦1162年、カンタベリー大聖堂(上の画像)の大司教が亡くなった。ヘンリー2世は股肱の臣トマス・ベケットを大司教に据えようとする。しかし、それを固辞するトマス・ベケット。神とイングランド王との二人の主人に仕えることは出来ないと ・・・ 。

大司教トマス・ベケット殺害(カンタベリー、イギリス)

しかし、ヘンリー2世の命によりカンタベリー大聖堂の大司教となったトマス・ベケット。教会の立場を守ろうとするトマス・ベケットは、やがてイングランド王ヘンリー2世と対立することになった。

西暦1164年には、王との対立が激しくなり、大司教トマス・ベケットはフランスに逃れざるを得なくなった。しかし、1170年にはヘンリー2世と和解し、トマス・ベケットはイングランドに戻ってきたんだ。

カンタベリー大聖堂にある大司教トマス・ベケット殉教碑(イギリス)

そして、その年の12月29日午後4時、大司教トマス・ベケットは、カンタベリー大聖堂の祭壇の前で、4人の刺客によって殺害された。(上の画像は、殺害現場にある殉教の碑。)

4人の刺客は、イングランド王ヘンリー2世の為に大司教を殺害したと言われている。王が殺害を命じたかどうかは明らかではないんだけどね。

カンタベリー大司教だったランフランクと聖アンセルムス

イングランド王と対立したカンタベリー大司教トマス・ベケットと同様の立場に置かれた人々も過去にはいたんだ。例えば、イングランド征服王ウィリアム1世の腹心だったカンタベリー大司教ランフランク。彼は幾度かウィリアム1世と対立したらしい。でも、結局は大司教として天寿を全うしたみたい。

そのランフランクの弟子だった聖アンセルムスもカンタベリー大司教となり、イングランド王ウィリアム2世ヘンリー1世と聖職者叙任権などをめぐって対立している。その挙句に一時期はイングランドから追放されたりもしている。それでも、大司教と王との妥協が成立し、大司教として天寿を全うしているんだ。

しかし、このページの主役であるトマス・ベケットは4人の刺客によってカンタベリー大聖堂で殺害されている。見方によっては、イングランド王ヘンリー2世がとんでもなくおっちょこちょいの家臣4人を持っていたと言えなくもないんだけどね。

しかし、やがて時代は進み、王政は一人の司教の死では満足できなくなる。つまりは、キリスト教の教会をローマの教皇庁から切り離し、自ら教会組織のトップの座につくことになるわけだ。但し、それはまだ数百年ほど先のこと。あのヘンリー8世の登場を待つことになるわけだね。

フランス王ルイ7世のカンタベリー大聖堂参詣

時は流れて西暦1179年、フランス王ルイ7世のただ一人の跡継ぎであるフィリップは、病を得て死線をさまよっていた。

フランス王ルイ7世は、三晩続けてベケットの夢を見た。そこでルイ7世はイングランドを訪れ、カンタベリー大聖堂にあるトマス・ベケットの墓に参詣したんだ。ルイ7世が帰国したとき、皇太子フィリップは健康を回復していたそうな。

上の画像は、イングランド南部にあるカンタベリー大聖堂。ロンドンから鉄道を利用して気軽に日帰りで行けるよ。

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