ヨーロッパの歴史風景 中世編




西暦1431年、百年戦争中のフランスを救った少女ジャンヌ・ダルクが、異端の罪によって処刑された。


フランス西部ロワール川ののどかな風景

フランス西部を流れるロワール川、美しい城の立ち並ぶロワール川の風景が下の画像なんだけど、なんとものどかな眺めだよね。ところが、このロワール川が戦争の最前線となったことがある。それがイギリスとフランスとの間の百年戦争の頃なんだ。

フランス西部ロワール川ののどかな風景

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百年戦争に苦しむフランス

西暦1328年、カペー朝フランス王家が断絶し、ヴァロワ家のフィリップ6世がフランス王位を継承した。ところが、カペー家と濃密な血縁関係にあったイングランド王家のエドワード3世が異議を唱え、西暦1339年に百年戦争が始まったんだ。

全般的に不利な状況にありながらも、ヴァロワ朝フランス王家はイングランドとの戦いを続けていた。ところが、西暦1418年から戦況はフランスに著しく厳しくなっていった。

ブルゴーニュ公フィリップの肖像 まず西暦1415年にはブルゴーニュ公ジャン無畏公がイングランドと同盟してしまった。更に西暦1418年にはフランスの首都パリがイングランド・ブルゴーニュ連合軍に奪われてしまう。

西暦1419年には、フランス王を支持するアルマニャック派によってブルゴーニュ公ジャン無畏公が暗殺されたものの、その息子ブルゴーニュ公フィリップ善良公(右の画像)は更にイングランドに接近してしまった。

そして西暦1420年にはイギリスとフランスとの間にトロワ条約が結ばれ、フランス王シャルル6世の娘カトリーヌと結婚したイングランド王ヘンリー5世がフランス王位継承権を獲得してしまった。

その後、イングランド王ヘンリー5世が亡くなるも、その弟ベドフォード公に補佐された幼王ヘンリー6世がイングランド王を継承。更にフランス王シャルル6世が亡くなり、ヘンリー6世がフランス王をも兼ねることとなったんだ。

追いつめられた王太子シャルルと
イングランド軍によるオルレアンの包囲

その間、前フランス王シャルル6世の王太子シャルルは、ロワール川の南に逃げ込んでいた。つまり、フランス北部ノルマンディー地方を支配するイングランド軍とロワール川の南の地域を支配する王太子シャルルの軍とは、上の画像にあるロワール川をはさんで対峙していたわけだ。

そのロワール川沿いの要衝がオルレアンだった。西暦1428年10月、イングランド軍が王太子派の要衝オルレアンを包囲した。このオルレアンを奪取すれば、南西部ギュイエンヌのイングランド支配地との連絡も容易になり、かつロワール川の南にいる王太子シャルルを追いつめることができるというわけだ。

フランスを救った少女ジャンヌ・ダルク登場

西暦1412年頃にフランス北東部のドン・レミ村で生まれた少女ジャンヌ・ダルクは、13歳の頃(西暦1426年頃)から聖ミカエルを通じて「フランス国王を救え」という神の言葉を聞いていたといわれる。

そんなジュアンヌ・ダルクが故郷を出発したのが西暦1429年2月のこと。王太子シャルル派の要衝オルレアンがイングランド軍によって包囲されて数ヶ月が経った頃だね。

チュイルリー庭園前にあるジャンヌ・ダルクの黄金の騎馬像(パリ、フランス) 3月に王太子シャルルと謁見したジャンヌ・ダルクは、4月には支援軍の指揮官の一人となってオルレアンの救出に出発した。(右の画像はフランスの首都パリのチュイルリー庭園の前にあるジャンヌ・ダルクの騎馬像。)

オルレアンに入城したジャンヌ・ダルクは、直ちにイングランド軍に攻撃を仕掛け、街を包囲する敵軍の砦のいくつかを奪取した。やがてイングランド軍は包囲を解き、オルレアンの街は救われたんだ。

フランス王シャルル7世のランスにおける戴冠

オルレアン救出後、ジャンヌ・ダルクはアランソン公ジャン指揮下の軍に加わり、ロワール川流域の街々をイングランド軍の支配から奪い返す作戦に参加していた。

そして西暦1429年6月、王太子シャルル、アランソン公ジャンなどとともに、ジャンヌ・ダルクはフランス国王戴冠の街ランスを目指して進軍を始めた。翌月には王太子シャルルとともにランスの街に入城し、7月17日にはランス大聖堂において戴冠式が行われ、フランス王シャルル7世が正式に即位することができたんだ。

勢いに乗ったアランソン公ジャンとジャンヌ・ダルクの部隊は、9月にはフランスの首都パリの奪回に乗り出した。しかし、その戦いでジャンヌ・ダルクは弓矢を受けて負傷。しかも、フランス王シャルル7世の命により、退却せざるを得なくなった。




敵軍の手に落ち、異端の罪により
処刑されたジャンヌ・ダルク

パリからの退却後、アランソン公ジャンやジャンヌ・ダルクたちの部隊は国王シャルル7世の命によって解散させられる。しかも、アランソン公ジャンはノルマンディー地方に派遣され、ジャンヌ・ダルクは理解者から引き離されてしまったんだ。

その後のジャンヌ・ダルクは山賊討伐の部隊に配属されてしまう。イングランド軍をフランスから追い払うという彼女の夢は遠ざかりつつあった。

フランスの首都パリのノートルダム大聖堂にある神に祈るジャンヌ・ダルクの像 翌年の1430年5月、自費を以て兵士を雇ったジャンヌ・ダルクは、ブルゴーニュ軍によって包囲されていたパリ北方の街コンピエーニュの救出に向かった。そして5月23日、戦闘中に孤立したジャンヌ・ダルクがブルゴーニュ軍によって捕らえられてしまった。

それから半年後の11月、ジャンヌ・ダルクはイングランド軍に引き渡された。彼女を捕らえた部隊の指揮官ジャン・ド・リュクサンブールは1万リーブルを受け取ったといわれる。

イングランド軍によって牢獄に放り込まれたジャンヌ・ダルクに対して、異端による裁判が行われた。(右の画像はパリのノートルダム大聖堂にある神に祈るジャンヌ・ダルク像。)

そして西暦1431年5月30日、フランスを救った少女ジャンヌ・ダルクが火刑に処せられた。彼女は処刑の最中も十字架を目にすることを望んだという。繰り返しイエスの名を呼んだとも言われている。

ジャンヌ・ダルクと百年戦争のその後

ジャンヌ・ダルクの処刑から18年が経った西暦1449年、フランス王シャルル7世はイングランド軍の手からノルマンディー地方を奪回した。翌年の西暦1450年にはジャンヌ・ダルクの異端裁判に関する調査を命じている。

フランス王シャルル7世は西暦1453年にカスチヨンの戦いに勝ち、イングランド軍からギュイエンヌ地方を奪回し、百年戦争も終結する。そして西暦1456年、ジャンヌ・ダルクに異端の判決を下した裁判の無効が宣言された。

その後、西暦1920年にはローマ法王庁によってジャンヌ・ダルクが聖人の列に加えられているんだ。

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(パリ、ロワール、ノルマンディ、シャルトル)




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