|
|
|
|
|
|
|
西暦1483年、旧ブルゴーニュ公国分割について、フランスのヴァロワ王家とハプスブルク皇帝家とがアラス条約を締結。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
ブルゴーニュ公シャルル突進公の戦死と 残されたブルゴーニュ公国
西暦1477年1月、スイス・アルザス・ロレーヌに連敗し、怒りのあまりに我を忘れたブルゴーニュ公シャルル突進公は、無謀な戦いを挑んで戦死してしまった。世継ぎの無いブルゴーニュ公家の所領はどうなるのか。残された一人娘マリー・ド・ブルゴーニュはどうするのか。
先手を取ったフランス王ルイ11世
ブルゴーニュ公家の遺産争いの先手を取ったのは、フランス王ルイ11世だった。シャルル突進公戦死の報せを受けたルイ11世は、ブルゴーニュ公領制圧のために直ちに軍を動かした。
2月にはフランス王の軍がブルゴーニュ公国の首都ディジョンに入った。
この街には、かつて芸術を保護した旧ブルゴーニュ公家の思い出となる建物も多い。
例えば、右の画像にあるディジョンのノートルダム大聖堂。私にはよくわからないんだけど、この聖堂は、フランスの首都パリにあるサント・シャペルと並んで、中世フランス建築の代表たり得るものらしいよ。
それよりも、右上の画像の右上隅に一部だけ見えている仕掛け時計「ジャックマール」。これはヴァロワ家系ブルゴーニュ公の初代フィリップ・ル・アルディ大胆公がフランドルの戦いで得た戦利品なんだ。こんなところにも、ブルゴーニュ公家の面影が見えている。
フランス王ルイ11世に対して
反乱を起こしたブルゴーニュの人々
しかし、フランス王ルイ11世による旧ブルゴーニュ公国制圧が順調に進んだわけじゃないんだ。例えば、フランス王軍がディジョンに入って数ヵ月後の西暦1477年6月には、旧ブルゴーニュ公国の首都ディジョンで反乱が起こっている。
反乱の火は各地に飛び火して、例えばボーヌでも反乱が起こったんだ。(下の画像は、ブルゴーニュ・ワインの取引の中心地ボーヌにあるホスピス・ド・ボーヌあるいはオテル・デュー、日本語ではボーヌ施療院。ブルゴーニュ公国の大法官あるいは大書記官だったニコラ・ロランの寄進によるもの。)
フランス王ルイ11世による支配に対するブルゴーニュの人々の反乱は、すぐに鎮圧されてしまった。
そして、西暦1479年7月にはフランス王ルイ11世がディジョンに入城。ディジョンのサン・ベニーニュ大聖堂で人々による忠誠の誓いを受けている。
皮肉なことに、西暦1364年にはヴァロワ家系ブルゴーニュ公初代のフィリップ大胆公が同じサン・ベニーニュ大聖堂で人々の忠誠の誓いを受けているんだ。ブルゴーニュ公家にとって始まりの場所であり、終わりの場所でもある。
マリー・ド・ブルゴーニュと ハプスブルク家のマクシミリアン
もちろん、フランス王ルイ11世の先手に対して、反撃が加えられた。それがブルゴーニュ公シャルル突進公の忘れ形見であるマリー・ド・ブルゴーニュと、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の息子であるマクシミリアンとの結婚だった。
ヴァロワ家系ブルゴーニュ公家の相続人マリー・ド・ブルゴーニュは西暦1482年に亡くなっている。でも、ハプスブルク家のマクシミリアンとの間に、フィリップ美公を残している。そのフィリップ美公がスペイン王家のファナと結婚し、二人の子供がスペイン王にして神聖ローマ皇帝となったハプスブルク家のカール5世だよね。
また、西暦1479年には、旧ブルゴーニュ公家の遺産をめぐって、マクシミリアンの父である神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世がフランス軍を撃ち破っている。
そんなこんなの挙句に西暦1483年12月に締結されたのがアラス条約だった。最終的にハプスブルク家はフランシュ・コンテ、オランダ、ベルギーなどを取り、ヴァロワ家はフランス王国内の(つまり狭義の)ブルゴーニュ公領を取ったわけだ。
わざわざ書くまでも無いかもしれないけど、フランス王ルイ11世がとったブルゴーニュ公領には、ワインで有名なコート・ドールも含まれている。(下の画像はブルゴーニュ・ワインの産地を代表するコート・ドールの一画にあるジュヴレ・シャンベルタン村のブドウ畑。)
|