ヨーロッパの歴史風景 中世編




西暦1494年、イタリアのフィレンツェにおいてメディチ家が追放され、サヴォナローラによる統治が始まった。


フィレンツェのサン・マルコ修道院にやって来たサヴォナローラ

西暦1452年、イタリアの街フェラーラでジロラーモ・サヴォナローラが生まれた。祖父の跡を継ぐべく、彼はフェラーラ大学に進む。でも、医学ではなく宗教への道を志望した彼は、西暦1475年のボローニャにあったドミニコ派の修道院を訪れ、修道士となる道に入っている。

そんな彼がイタリアの古都フィレンツェのサン・マルコ修道院に赴任したのは西暦1482年のことだった。(下の画像は今のサン・マルコ美術館、即ちかつてのサン・マルコ修道院の中庭の回廊の様子。この美術館ではフラ・アンジェリコなどのいくつもの宗教画を見ることが出来る。)

フィレンツェのサン・マルコ美術館(かつて修道院)の中庭の回廊(イタリア)

サヴォナローラは西暦1487年にサン・マルコ修道院を離れている。そんな彼が修道院長としてサン・マルコに戻ってきたのは西暦1490年のことだった。それを側面から支援したのは、当時のメディチ家の当主にしてフィレンツェの実質的な支配者でもあるロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコあるいは豪華王)だった。

ところが、サヴォナローラはフィレンツェの中心でもあるドゥオモ(花の聖母マリア大聖堂)での説教において、当時の人々の享楽的な生活を非難し、更にはロレンツォ・デ・メディチを批判し、神罰としての敵軍の来襲を予言したんだそうな。(その説教が行われたドゥオモは、ロレンツォが命を狙われたパッツィ家の陰謀の現場だった。)

フランス王シャルル8世のイタリア侵入とメディチ家追放

ともかくもメディチ家の黄金時代を演出したロレンツォ・デ・メディチは西暦1492年に亡くなり、その息子がメディチ家の当主となった。その頃、アルプスの向こうのフランス王シャルル8世は、ルネ・ダンジューのナポリ王位を継承したと主張し始めていた。彼の主張に火をつけたのは、ロレンツォの次女の舅となっていたローマ教皇インノケンティウス8世だった。

そんなフランス王シャルル8世ミラノ通過を認め、実際にイタリアに侵入させたのが、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ)だった。甥のミラノ公位を奪ったルドヴィーコ・スフォルツァに対して、異議を差し挟んだのが当時のナポリ王であり、そのナポリ王を黙らせるためにフランス王の虎の威を借りようとしたわけだね。(下の画像はミラノ公の居城だったミラノのスフォルツェスコ城。)

ミラノ大公家の居城だったスフォルツェスコ城(イタリア)

ところが、フランス王のイタリア侵入の大波を受けてひっくり返ったのが、メディチ家の当主となっていたピエロ・デ・メディチだった。シャルル8世と面談したピエロだったけど、フランス軍の通過を認めたのみならず、更に様々な要求を丸呑みせざるを得なかった。そんな彼の屈辱的な弱腰はフィレンツェ市民の怒りを買い、メディチ家はフィレンツェから追放されてしまった。

フィレンツェの統治者となったサヴォナローラ

実質的な統治者だったメディチ家を追放したフィレンツェ市民は、かつてドゥオモ(大聖堂)での説教において神罰としての敵軍の来襲を予言し、更にはシャルル8世と交渉してフランス軍のフィレンツェ迂回を引き出したサヴォナローラに市の統治を委ねた。

こうしてフィレンツェを統治し始めたサン・マルコ修道院の修道院長サヴォナローラは、神への信仰に基づいた質素な暮らしを人々に要求した。彼が不適切と考えた本や芸術作品・美術品などを集めて火をつけたこともあったらしい。

中世の塔の街サン・ジミニャーノのドゥオモにある聖母子像(イタリア)

サヴォナローラはフィレンツェのみならず、その支配下にあったサン・ジミニャーノなどにも赴き、そのドゥオモで説教したこともあったそうな。(上の画像は中世の塔の街サン・ジミニャーノドゥオモにある聖母子像。ちなみに、サン・ジミニャーノは西暦1353年にフィレンツェに従属している。)

処刑されたサヴォナローラ

ところが、フィレンツェの人々はあまりに厳格なサヴォナローラの統治に対して次第に反発し始めたらしい。加えて、「神の代弁者」を自称した彼に対してローマ教皇アレクサンデル6世は反発し、西暦1497年にサヴォナローラを破門している。

明けて西暦1498年春、暴徒と化したフィレンツェ市民がサン・マルコ修道院を取り巻いた。サヴォナローラは捕われ、ヴェッキオ宮殿のアルノルフォの塔の中にある独房に放り込まれた。

その1ヵ月後、シニョーリア広場に引き出された彼は絞首刑に処され、更に彼の遺骸は火に焼かれ、その灰はアルノ川に流されたそうな。(下の画像の下部に見えている円盤は、シニョーリア広場の一角にある彼の処刑の場所を示している。)

フィレンツェのシニョーリア広場にあるサヴォナローラ処刑の場所(イタリア)

サヴォナローラは亡くなった。でも、追放されたメディチ家がすぐにフィレンツェに復帰できたわけじゃなかった。当主のピエロはチェーザレ・ボルジアの軍と行動を共にしていたんだけど、西暦1503年にナポリ近くの戦場での敗戦の際に川で溺れて亡くなっている。

その頃のフィレンツェは市民たちによる自治が行われていた。そんな市民たちの自治・自立・自律を象徴するものとしてミケランジェロによって西暦1504年に制作されたのが、シニョーリア広場に立てられたダヴィデ像だった。(但し、今のシニョーリア広場に立っているのはレプリカであり、オリジナルのダヴィデ像はアカデミア美術館で見ることが出来るんだけどね。)

他方、当主ピエロを失ったメディチ家は、その弟のジョヴァンニ・デ・メディチに率いられ、各地を転々としていた。その後、枢機卿となったジョヴァンニはスペインの支援を得て、西暦1512年にメディチ家のフィレンツェへの復帰を成し遂げている。彼がローマ教皇レオ10世として即位したのは、その翌年のことだった。

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