ヨーロッパの歴史風景 近代・現代編




西暦 1805年10月、ネルソン提督指揮下のイギリス艦隊が、トラファルガーの海戦においてフランス・スペイン連合艦隊を撃破した。


トラファルガーの海戦とイギリスのネルソン提督

ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン提督の像(イギリス) 西暦1804年に皇帝となったナポレオンは、英仏海峡を渡ってイギリスを征服しようと考えていた。その野望を打ち砕いたのが、イギリス艦隊を指揮していたネルソン提督かな。

西暦1805年10月、トラファルガーの海戦において、ネルソン提督指揮下のイギリス艦隊は、フランス・スペイン連合艦隊を打ち破った。その結果、ナポレオンが考えていた英仏海峡渡河作戦は不可能となったわけだ。

ナポレオンの野望を打ち砕いたネルソン提督はイギリスの英雄となった。そして、ロンドンのトラファルガー広場に立てられた円柱の上から、ネルソン提督の像(右の画像)がイギリスの首都ロンドンを見渡しているんだ。

トラファルガーの海戦の英雄にして
人間ホーレイショ・ネルソン

イギリスをナポレオンの侵攻から救ったネルソン提督は、12歳のときに海軍に入り、ナポレオン戦争が勃発した1793年の時点では軍艦アガメムノン号の艦長になっていた。

1797年にはケープ・セント・ヴィンセントの海戦でフランス・スペイン艦隊を破り、ネルソンは准将に昇進した。1798年には、エジプトのナイル川の戦いで再びフランス艦隊を撃破。数々の活躍によって、彼は子爵に叙せられている。

しかし、そんなネルソン提督は聖人君子でもなければ、戦争の鬼でもなかった。イタリア南部カンパーニャ地方の中心都市ナポリに駐在していた頃には、イギリス大使夫人のエマ・ハミルトンとのロマンス(早い話が不倫なんだけど)が伝えられている。

そんな人間的な面を持つネルソン提督は、戦場に出ればすざましい戦いをしたに違いない。というのも、数々の武勲をあげる間に、右目と右腕を失っていたんだ。

そして1805年10月21日、トラファルガー沖でフランスとスペインのナポレオン艦隊を捕捉したときも、彼は艦橋で勇敢に指揮を取った。勝利を得たとき、致命傷を負ったネルソン提督は、亡くなる寸前だったんだ。

ネルソン提督のお墓はロンドンのセント・ポール大聖堂の地下に

ネルソン提督は今、ロンドンのセント・ポール大聖堂の地下で眠っている。(下の画像はネルソン提督の墓碑。)

ロンドンのセント・ポール大聖堂の地下にあるネルソン提督の墓(イギリス)

私たちのような海外からの観光客でも、ネルソン提督のお墓にお参りすることができるんだよ。

アウステルリッツの会戦と
ナポレオンに敗れたクトゥーゾフ将軍

ロシアの古都サンクト・ペテルブルクにあるカザン寺院の前のクトゥーゾフ将軍像 ネルソン提督がイギリスの英雄となったのとは対称的に、辛酸をなめた軍人もいる。それがロシアのクトゥーゾフ将軍(右の画像)なんだ。

トラファルガーの会戦の一ヶ月あまり後、1805年12月2日に行われたアウステルリッツの会戦(あるいは三帝会戦)において、彼は実質的にロシア・オーストリア連合軍の指揮官だったんだけど、ナポレオンにまんまとしてやられてしまったんだ。

ナポレオンとアウステルリッツの会戦(三帝会戦)

アウステルリッツの会戦は、三帝会戦とも呼ばれている。ロシアのアレクサンドル1世、オーストリアのフランツ1世、そしてフランスのナポレオンという三人の皇帝が戦ったからなんだけどね。

この戦いにおいてナポレオンは見事なまでの作戦の妙を見せている。あまりに見事な勝利だったものだから、この戦いは第一次世界大戦までフランス軍の士官学校の教材になっていたんだそうな。

事前に戦場を視察して作戦を練っていたナポレオンは、会戦の当日に敢えてフランス軍の右翼を手薄にしておいた。それを見たクトゥーゾフ将軍指揮下のロシア・オーストリア連合軍は、フランス軍の右翼に攻撃をかけてきたわけだ。

その結果、ロシア・オーストリア連合軍の中央は手薄になる。それを待っていたナポレオンは、一気に敵軍の中央に主力を突撃させた。作戦は効を奏し、アウステルリッツの会戦の結果はフランス軍の快勝となった。

苦杯をなめたロシアのクトゥーゾフ将軍。でも、彼も後にロシアの英雄となっている。だからこそロシアの古都サンクト・ペテルブルクにあるカザン寺院の前に彼の像が立っているんだ。でも、そのお話はもう少し先のことかな。

ついでながら、このアウステルリッツの会戦での勝利を記念して、皇帝ナポレオンがフランスの首都パリに建てさせたのが、今のシャルル・ド・ゴール広場のエトワール凱旋門だった。でも、その凱旋門の完成は西暦1836年だった。既にセント・ヘレナ島で亡くなっていた皇帝ナポレオンの亡骸がパリに帰還してエトワール凱旋門をパレードしたのは、西暦1840年のこと。そしてアンヴァリッド 廃兵院ナポレオンのお墓が作られたわけだ。

ネルソン提督の受難

ネルソン提督がナポレオン戦争で活躍した頃、アイルランドはイギリスの統治下にあった。というわけで、アイルランドの首都ダブリンのメインストリートの一つであるオコンネル通りには、ネルソン提督の像が立てられたんだ。

ところが、イギリスの統治下から独立したアイルランドにおいては、英雄ネルソン提督はイギリスの帝国主義のシンボルでもあった。そして西暦1966年、ネルソン提督の像の立つ円柱の半ばから上が爆破されてしまった。間もなく円柱の残りの部分も撤去されてしまった。英雄ネルソン提督が悪事をはたらいたわけじゃないんだろうけどね。

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