フィレンツェのピッティ宮殿西暦1737年10月31日、イタリアにおいて第7代トスカナ大公ジャン・ガストーネ死去。
ジャン・ガストーネはメディチ最後のトスカナ大公だった。その死に伴い、トスカナ大公位を継承したハプスブルク・ロレーヌ家の大公が、フィレンツェにあるピッティ宮殿(右の画像)に移り住んできた。
余談ながら、ジャン・ガストーネの死後もピッティ宮殿に住んでいたアンナ・マリーア・ルイーズ・デ・メディチが亡くなったのは、西暦1743年2月のこと。彼女の死を以って、フィレンツェのメディチ家の歴史が終わった。 ピッティ宮殿内のパラティナ美術館の一般公開
西暦1828年、ハプスブルク・ロレーヌ家のトスカナ大公レオポルト2世によって、ピッティ宮殿の中にあるパラティナ美術館の一般公開が決定された。右の画像は、パラティナ美術館の一角にあるプロメテウスの間。 このパラティナ美術館に展示されているのは、フィリッポ・リッピ、ラファエロ、カラヴァッジョ、フラ・バルトロメオ、ルーベンス、...等など。 その殆どはメディチ家によって収集されたものなんだって。それだけピッティ宮殿とメディチ家との関係が深かったということかな。 |
ピッティ宮殿とメディチ家西暦1458年、フィレンツェの銀行家ルカ・ピッティがアルノ川南岸のボボリの丘に宮殿を建てることを計画した。西暦1478年、パッツィ家の陰謀。メディチ家の当主である大ロレンツォとその弟の殺害を計画した陰謀。それに加担していたルカ・ピッティが失脚した。 西暦1549年、トスカナ大公コシモ1世の夫人エレオノーラ・デ・トレドがピッティ宮殿を買い取り、未完成のままだった宮殿の建築工事を再開した。 西暦1560年、まだ建築工事の続いていたピッティ宮殿にトスカナ大公コシモ1世の一家が移り住んだ。エレオノーラ大公妃は、宮殿の裏にあるボボリ公園を散歩することが大好きだったらしいよ。 西暦1737年、メディチ家最後のトスカナ大公ジャン・ガストーネが亡くなり、ハプスブルク・ロレーヌ家のトスカナ大公がピッティ宮殿に移り住んできた。 西暦1743年、ピッティ宮殿に住んでいたメディチ家最後の生き残りアンナ・マリーア・ルイーズ・デ・メディチが亡くなった。 西暦1828年、トスカナ大公によってピッティ宮殿内のパラティナ美術館が一般公開された。 西暦1865年から1871年まで、統一イタリア王国の首都がフィレンツェに置かれ、ピッティ宮殿は初代国王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世の王宮とされた。 西暦1915年、イタリア王家がピッティ宮殿を国家に寄贈。 ボボリ庭園の丘から見るフィレンツェ上にも書いたけど、初代トスカナ大公コシモ1世の大公妃エレオノーラ・デ・トレドは、ピッティ宮殿の裏手にあるボボリ庭園を散歩することが好きだったんだ。そのボボリ庭園の奥にある高台にあるカフェからのフィレンツェの眺めが下の画像なんだ。ボボリ庭園を散歩することが好きだったという大公妃の気持ちがわかるよね。
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