ヨーロッパの歴史風景 近代・現代編




西暦 1901年、日本の作曲家 瀧廉太郎がドイツのライプツィヒに留学した。


ドイツにおける音楽の古都ライプツィヒ

クラシック音楽の作曲家といえば、誰の名前が頭に浮かぶだろうか。ベートーベン、モーツァルト、シューベルト ・・・ などかな。森の石松ではないけど、誰か忘れちゃいませんか。そう、バロック音楽の大家とされる J・S・バッハ(あるいは大バッハ)がいるよね。

そのバッハの飛躍の舞台となったのが、かつての東ドイツの街ライプツィヒだった。彼はこの街にあるトーマス教会の音楽監督となり、そこでマタイ受難曲などの彼の代表作をいくつも生み出したんだそうな。(下の画像はライプツィヒのトーマス教会の祭壇。)

ドイツのライプツィヒにあるトーマス教会の祭壇

もちろん、音楽の街としてのライプツィヒの名を高めたのはバッハだけじゃない。例えばドイツのロマン派の作曲家ワーグナーはこの街で生まれ、トーマス教会の音楽監督から指導を受けていたんだそうな。

更にはメンデルスゾーンはライプツィヒを拠点として活動している。そんなメンデルスゾーンは音楽家を育てるためにこの街に音楽院を設立した。そのライプツィヒ音楽院に留学したのが、明治時代の日本を代表する作曲家の瀧廉太郎だった。

瀧廉太郎の生い立ち

西暦1879年(明治12年)、東京で滝廉太郎が生まれた。父親は政府のお役人だった。そんな父親の転勤によって、一家は何度も引越しをしている。神奈川県、富山県、そして大分県へ。やがて一家は大分県竹田市で暮らし始めた。

大分県竹田市にある瀧廉太郎記念館

彼らが竹田市で住んでいたのが、上の画像の家(今は瀧廉太郎記念館となっている)だった。錬太郎はここで12歳から14歳までの2年半を過ごしたんだそうな。ちなみに、この街で過ごしたことが、後に彼の代表作の一つを作曲させることになる。(その話は後ほど ・・・ 。)

ライプツィヒに留学した瀧廉太郎

やがて東京音楽学校(今の東京藝術大学)でピアノと作曲を学んだ瀧廉太郎に、ドイツ留学の機会が与えられた。ドイツの首都ベルリンに到着したのは西暦1901年(明治34年)4月のこと。やがてライプツィヒに移った彼は、メンデルスゾーンが設立した音楽院に入学した。(下の画像はライプツィヒ留学時代の瀧廉太郎。)

ドイツのライプツィヒに留学していた頃の瀧廉太郎の写真

ところが、それから半年も経たないうちに瀧廉太郎は肺結核に倒れてしまった。やむなく帰国することとなった彼は、イギリスの首都ロンドンを経て、横浜に到着。西暦1902年(明治35年)10月のことだった。

滝廉太郎の代表作の一つ「荒城の月」

日本に帰国した瀧廉太郎は、大分県で肺結核の治療に努めた。しかし、帰国から1年も経たない西暦1903年(明治36年)10月に24歳で亡くなってしまった。若くして亡くなった瀧廉太郎の代表作の一つが中学唱歌となった「荒城の月」だよね。

大分県竹田市の岡城二の丸跡に立つ瀧廉太郎像

上の画像は滝廉太郎が少年時代を過ごした大分県竹田市にある岡城の二の丸跡に立つ彼の像なんだけど、この城こそが代表作「荒城の月」のモデルとなったと言われている。おそらく彼は少年時代にこの城跡に登ってきていたんだろうね。

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