ヨーロッパの歴史風景 近代・現代編




西暦1922年、イギリスからの分離独立を求める人々によってアイルランド自由国が建国された。


ユナイテッド・アイリッシュメンの反乱とイギリス連合王国

11世紀後半にイギリスのノルマン系貴族たちがアイルランドに進出し、イングランド王ヘンリー2世は息子のジョン(後の失地王)をアイルランド卿とした。やがて代々のアイルランド卿の地位を受け継いだイングランド王ヘンリー8世は、自らアイルランド王を称した。

更には清教徒革命の後、クロムウェルはアイルランドの抵抗を軍を率いて粉砕した。名誉革命によってロンドンを追われたジェームズ2世は王座奪還を目指したもののオレンジ公ウィリアム(イングランド王ウィリアム3世)にアイルランドで敗れた。そんな流れの中でイングランド(あるいはイギリス)は次第にアイルランド統治を強化していったんだ。

対して、支配されていたアイルランドの人々は、次第に独立を求めるようになっていった。その背景にはアイルランド人の多くを占めるカトリック教徒は、イギリス統治下において差別されていたこと、更にはアイルランドはイギリスとの貿易において不利な立場に置かれていたことなどがあった。

アイルランドにあるタラの丘の立石

かくして西暦1791年には独立を求めるユナイテッド・アイリッシュメンが組織され、やがて彼らは西暦1798年にイギリスに対する反乱を起こしたんだ。でも、反乱軍はイギリス軍によって壊滅させられてしまった。(上の画像は戦場の一つとなったタラの丘なんだけど、かつてケルト族の時代には上王はこのタラの丘で即位していたという由緒ある土地だったそうな。)

独立の夢を実現できなかっただけではすまなかった。西暦1800年にはイギリスとアイルランドとの間で連合法が成立し、翌年にはイギリスとアイルランドとの連合王国が成立した。わかりやすく言えば、アイルランドはイギリスによって併合され、自治さえも否定されてしまったんだ。

アイルランドにおけるイースター蜂起

アイルランドの人々は連合王国の中でカトリック教徒に対する差別の撤廃を求め続けた。そのリーダーの一人がダブリンオコンネル通りに銅像と名を残す政治家ダニエル・オコンネルだった。彼の尽力により、西暦1829年にはカトリック教徒解放法が成立したんだ。(イギリスで成立した法律だけど、連合王国を構成するアイルランドにも適用された。)

それでもアイルランドの人々はイギリスからの独立を求め続けた。というのも、例えば土地所有の問題がある。土地の多くを所有していたのはイギリス系でプロテスタントの貴族やお金持ちであり、アイルランドの人々の多くは貧しい小作農だった。そんな状況下、19世紀半ばにはアイルランドにおける飢饉によって多くの人が亡くなり、あるいはアメリカなどに移民している。19世紀を通じて、アイルランドの人口は激減したらしい。

やがて西暦1914年にはアイルランドに自治を認める法律が成立した。しかし、第一次世界大戦が続く間、自治の実現は見送られていた。そして西暦1916年、アイルランド義勇軍が武装蜂起した。それが「イースター蜂起」と呼ばれる事件だった。

アイルランドの首都ダブリンのオコンネル通りにある中央郵便局

アイルランド義勇軍はダブリンの中央郵便局(上の画像)を占拠し、司令部とした。更にはその建物の前でアイルランド共和国の樹立を宣言したらしい。でも、結局はイギリス軍によって粉砕され、イースター蜂起のリーダーたちは処刑されてしまった。

アイルランド独立戦争と血の日曜日事件

ところが、西暦1918年のアイルランドにおける選挙では、独立派のシン・フェイン党が圧勝したらしい。シン・フェイン党はアイルランド共和国軍を組織し、西暦1919年にはアイルランド共和国を宣言し、イギリスとの間で独立戦争が始まったわけだ。

ダブリン城を本拠にアイルランド統治を続けるイギリスは、スパイを組織していた。対する独立派は西暦1920年にイギリスのスパイたちの暗殺を実行した。暗殺者の捜査の為、イギリス軍はダブリン市内にあるクローク・パーク競技場を包囲した。(下の画像はクローク・パーク競技場でのゲーリック・フットボールの様子。)

アイルランドの首都ダブリンのクローク・パーク競技場におけるゲーリック・フットボールの様子

そして、きっかけが何だったのかは定かではないが、イギリス軍の兵士たちが競技場内で一斉に発砲を始めたらしい。その結果、ダブリンの市民たちの14人が亡くなり、数十人が負傷することとなった。

アイルランド自由国の成立とその後

悲惨な血の日曜日事件はアイルランドの人々の結束を強化することになった。対してイギリス政府は非難を浴びることになった。かくして西暦1921年にはアイルランド独立派とイギリスとの間に条約が結ばれ、西暦1922年にはアイルランド自由国が成立したわけだ。

しかし、アイルランド系の人々が独立を歓迎したのに対し、アイルランドに住むイギリス系(イングランド系やスコットランド系)は独立には反対だった。カトリックは独立に賛成だったけれども、非カトリックは反対だった。条約では北アイルランドはイギリス連合王国にとどまることとされたけれども、全アイルランドのイギリスからの分離を求める人々もいた。かくして自由国成立の翌年にはアイルランドの内戦が起こっている。

成立したアイルランド自由国は、イギリス国王を戴く自治領だった。しかし、西暦1931年のウェストミンスター憲章により、イギリスと同格の独立国となっている。更に西暦1938年には実質的な元首として大統領を選出している。そして西暦1949年にはイギリス連邦からも離脱している。

名実共に独立したアイルランド。その国民の多くはカトリック教徒だね。でも、首都ダブリンにある聖パトリック大聖堂とクライスト・チャーチという二つの大聖堂は今もアイルランド国教会(英国国教会と同様のプロテスタント教会)に帰属している。

アイルランドのアラン島で見たアイルランド国教会の小さな教会の廃墟

他方で、独立後のアイルランドからは、イギリス系・スコットランド系あるいは非カトリックの人々が移住していったらしい。その結果の一つの例が上の画像にある小さな教会の廃墟だ。

この教会はアラン島にある聖トーマス教会。西暦1850年に創建されたプロテスタントの教会なんだけど、島から多くのプロテスタントが出て行った結果として廃墟になっているらしい。島にわずかに残ったプロテスタントはカトリックの教会で礼拝に参加しているんだそうな。

廃墟となった教会のみならず、島には荒れ果てた家や土地があちこちにあったよ。イギリスに渡っていったプロテスタントの不動産らしい。彼らが島を出て行ってから、所有者のわからない家や土地が荒れ果てるままになっているんだそうな。カトリックが出て行った北アイルランドには真逆の問題が起こっているんだろうね。

更には言葉の問題もある。アイルランドの人々は元々はケルト系のゲール語を母語としていた。でも、イギリスの統治下にあった時代に人々は英語を話すようになり、今ではゲール語を話す人は少数派になってしまったらしい。学校などではゲール語の教育が行われているけれども、実社会では英語が主流であり、学校を出た人々は次第にゲール語を忘れていってしまうんだそうな。政治的な独立を果たしても、それで全てが解決するわけじゃないんだよね。

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