ヨーロッパの歴史風景 近代・現代編




西暦 1968年、「プラハの春」事件。チェコの「人間の顔をした社会主義」を、ソ連軍などのワルシャワ条約機構軍の戦車が押しつぶした。


チェコにおける「人間の顔をした社会主義」の動き

チェコの首都プラハの中心地である市役所前広場の様子 西暦1948年には共産党がチェコの政治を掌握し、西暦1953年からはノボトニーによる独裁が始まった。その結果、チェコの社会は停滞してしまったんだ。

そして西暦1968年1月3日、改革派に属するドプチェクがチェコ共産党の第一書記に選ばれ、「人間の顔をした社会主義」を目指し始めたチェコにおいて、言論や集会の自由や市場経済などが導入され始めた。(右の画像はチェコの首都プラハの中心にある市役所前広場の様子。)

ソ連と東欧共産主義諸国による反動

しかし、チェコにおける自由化の動きは、ソ連を中心とする東欧の共産主義諸国の動きを刺激せずにはいられない。西暦1968年3月23日、ソ連と東欧6カ国の首脳が東ドイツの街ドレスデンに集まり、チェコの情勢について検討を行った。

対するチェコでは改革の動きは止まらない。4月1日から開催された共産党中央委員会総会では、改革派のシクが副首相に選出されている。更に6月27日にはチェコにおいて「二千語宣言」が発せられ、改革への決意が確認されたんだ。

対するソ連・東欧諸国は、7月14日にポーランドの首都ワルシャワで首脳会談を行い、チェコ政府に対する警告を発した。続く7月29日にはソ連とチェコの共産党による会議が行われたが、見るべき成果は得られなかった。

そして西暦1968年8月18日、ソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍はチェコへの軍事介入を決定した。(下の画像はチェコの首都プラハの観光名所カレル橋とプラハのシンボルとなっている王宮。)

チェコの首都プラハのシンボルとなっている王宮をカレル橋から見る

チェコの「人間の顔をした社会主義」を押しつぶした
ソ連戦車などによる「プラハの春」事件

西暦1968年8月20日、ソ連軍と東欧共産主義諸国軍によって構成されるワルシャワ条約機構軍がチェコに侵攻。抵抗する市民の中には兵士たちによって射殺されたものもいた。また軍事介入に抗議する学生二人は、プラハ市内で焼身自殺を遂げた。

チェコにおいて「人間の顔をした社会主義」を指導していたドプチェク第一書記はモスクワに連行され、チェコにおける改革の中止を認める書類に署名を強制された。更に西暦1969年4月17日には、チェコ共産党の第一書記として保守派のフサークが選出され、チェコにおける自由化の動きは完全に押さえ込まれてしまったんだ。

「プラハの春」のうららかな風景

しかし、歳月は流れ、ソ連にも東欧共産主義諸国にも行き詰まりの色が濃くなっていった。そして西暦1989年、当時の東ドイツにおいてベルリンの壁が崩壊した。

チェコの首都プラハの春の風景

東ドイツにおける解放の動きはソ連・東欧全体に広がり、共産主義諸国では一気に自由化が進んだ。そして、このチェコにもようやく春がめぐってきたわけだ。(上の画像は「プラハの春」のうららかな風景。)

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