泉の修道院 ファウンティンズ・アビー12世紀前半、イングランド北部の街ヨークの城壁近くにあるセント・メアリーズ修道院で内紛が起こった。6世紀の聖ベネディクトに始まるベネディクト派修道院も既に規律が弛緩しており、純粋な信仰の生活を取り戻そうとする改革派と、従来の生活を維持しようとする守旧派との間に対立が生じたわけだ。1132年、指導者リチャードを中心とする改革派の修道士13人が、セント・メアリーズ修道院から追放された。ヨーク大司教の支援を得た改革派の修道士たちは、スケル川のほとりに新しい修道院を建設し始めた。 その土地では、いくつかの泉がわいていた。その泉にちなんで、新しい修道院は、「セント・メアリー・オブ・ファウンティンズ修道院」と名づけられた。すなわち、それがファウンティンズ・アビー(泉の修道院)。(下の画像)
イングランド王ヘンリー8世による修道院解散法新しい修道院の財政は厳しい状況にあった。その危機をシトー派修道院の支援によって乗り切ったファウンティンズ・アビーは、次第に規模を拡大していった。他方、離婚問題を契機にイタリアのローマに拠点を置くカトリックのリーダーである法王との対立を深め、独自のイギリス国教会を設立したイングランド王ヘンリー8世。 ヘンリー8世は、ローマ法王の直接の管轄下にあり、また豊かな財産を持つ修道院に狙いを定め、1539年には大修道院解散法を成立させた。 その結果、この泉の修道院(ファウンティンズ・アビー)のみならず、アーサー王の墓があったとも言われるグラストンベリー修道院やロンドンからも日帰りでいけるセント・オバンス修道院など、イングランド各地の大修道院が解散させられたわけだ。
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