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西暦1537年、コシモ1世がメディチ家の当主となり、フィレンツェ大公となった。
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メディチ家当主フィレンツェ大公アレッサンドロ暗殺
庶出の出ながらメディチ家兄脈の当主の座とフィレンツェ大公の位を継承していたアレッサンドロ・デ・メディチがメディチ家の一員の手によって暗殺された。さて、次のメディチ家当主の座を誰が継承すべきか。
西暦1519年にウルビーノ公ロレンツォ・デ・メディチ(小ロレンツォ)が亡くなってメディチ家兄脈嫡流男系は途絶えていたこともあり、メディチ家の承継は混迷に陥るかと思われた。イタリアでも重要なトスカナ地方の支配者の後継は、ヨーロッパ諸国にとっても無視できない問題だった。問題解決が遅れれば諸外国の介入もありえる状況だった。
黒備えのジョヴァンニの子 コジモ・デ・メディチ登場
ところが、混乱を怖れたフィレンツェの有力者たちの多くは、メディチ家弟脈の出身ながらもコジモ・デ・メディチを推挙することでまとまったんだ。同じメディチ家ではありながらも、国父コジモ・デ・メディチの弟ロレンツォを祖とするメディチ家弟脈は、血縁において兄脈とは遠くなっていたんだけどね。
そのコジモ・デ・メディチなんだけど、ルネサンス代表する女傑カテリーナ・スフォルツァの孫にあたる。しかも、著名な傭兵隊長だった黒備えのジョヴァンニことジョヴァンニ・デ・メディチの子でもある。
父である黒備えのジョヴァンニの形見の武具に身を固めたコジモ・デ・メディチは、黒い武装の部下の兵たちを率いてフィレンツェの到着した。で迎えたフィレンツェの人々は、コジモ一行の姿に歓声をあげた。(右の画像はフィレンツェのシニョーリア広場にあるコジモ1世の騎馬像。)
メディチ家のフィレンツェ大公 コジモ1世
メディチ家兄脈の地位を引き継いでフィレンツェの元首となった弟脈出身のコジモ1世。でも、アレッサンドロによる専制的な支配の再現を怖れたフィレンツェの有力者たちは、フィレンツェ大公ではなく統領としてコジモ1世を迎えた。つまり、専制的な権力は与えないというわけだ。
ところが、フランスに敵対する同盟者をフィレンツェに期待する神聖ローマ皇帝カール5世は、コジモ1世にフィレンツェ大公の位を認めた。更にコジモ1世はフランス軍の支援を受けた反メディチ派の人々と戦って破り、イタリアの古都フィレンツェに専制的な権力を打ち立てることに成功した。(下の画像はフィレンツェの政治の中心であるヴェッキオ宮殿にあるコジモ1世の肖像。)
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