ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1544年、オスマン・トルコ海軍の提督となっていた海賊バルバロッサが、イタリアのアマルフィを襲った。


フランス南部マルセイユに入港した海賊バルバロッサのトルコ艦隊

西暦1543年、スレイマン大帝支配下のオスマン・トルコの艦隊が、フランス南部プロヴァンス地方にあるマルセイユの港に入港した。時のフランス王フランソワ1世は、宿敵ハプスブルク家の神聖ローマ帝国皇帝カール5世と対抗する為にオスマン・トルコと同盟していたんだ。そのオスマン・トルコ海軍の艦隊を指揮していた提督は、海賊として名高いハイレッディン・バルバロッサだった。

フランス南部プロヴァンス地方のマルセイユの港

上の画像はかつてオスマン・トルコ艦隊が入港したマルセイユの港の風景。今では多くの観光客が歩いている。ちなみに、上の港の周辺には、マルセイユ名物ブイヤベースのレストランも並んでいたりするんだ。

ニースを攻撃した海賊バルバロッサのオスマン・トルコ艦隊

その年、海賊バルバロッサのオスマン・トルコ艦隊は、フランス軍と協力してコート・ダジュール地方のニースを攻撃している。当時のニースはフランスの一部ではなく、むしろフランス王に敵対する神聖ローマ帝国に従うサヴォワ公の所領だった。

フランス南部コート・ダジュールにあるニースの海岸通 プロムナード・デ・ザングレ

上の画像は、今のニースの海岸通プロムナード・デ・ザングレなんだけど、この散歩道が完成したのは西暦1820年のこと。もちろんオスマン・トルコ艦隊の攻撃の時には無かったんだけどね。(ちなみに、ニースがフランス領となったのは西暦1860年のことだった。)

この西暦1543年のニース攻撃は失敗に終わり、オスマン・トルコ艦隊とフランス軍は撤退している。海賊バルバロッサ提督指揮下のオスマン・トルコ艦隊は、その年の冬をフランス南部トゥーロンで過ごしたんだそうな。

海賊バルバロッサのトルコ艦隊がイタリアのアマルフィを襲撃

明けて西暦1544年、多くの略奪品と奴隷にした人々を積んだ海賊バルバロッサ提督指揮下のオスマン・トルコ艦隊は、フランスを離れてトルコに帰還していった。

が、そこは名高い海賊ハイレッディン・バルバロッサ。何もせずにイタリアの沖合いを通過するはずもない。帰りがけの駄賃として、ナポリの南にあるアマルフィ(下の画像)を襲撃していった。

イタリア南部の中世の海洋都市国家アマルフィを海から眺めた

でも、中世の海洋都市国家だったアマルフィの人々は海賊バルバロッサの襲撃を撃退し、略奪を免れることができたらしい。そのアマルフィでは、街の守護聖人である聖アンドレア(セント・アンドリュー、つまりイギリス北部スコットランドの守護聖人でもあるね)のおかげだと考えられた。

ちなみに、アマルフィの大聖堂は、海賊バルバロッサに率いられたオスマン・トルコ艦隊からアマルフィを救ったとされる聖アンドレアに捧げられた教会なんだそうな。

他方のイスラム教徒の海賊たちは、その後もおとなしくしてはいない。西暦1558年にはアマルフィやナポリからも近いソレントを襲撃している。但し、その時点では海賊バルバロッサは亡くなっていたんだけどね。

もし私がアマルフィ大聖堂でお祈りしていれば ・・・

海賊バルバロッサとは関係ない話なんだけど、私がイタリアを旅していた頃、日本はサッカーのワールド・カップの真っ最中だった。

西暦2002年に日本で開催されたサッカーのワールド・カップで日本に勝ったトルコのチーム そして6月18日、私がアマルフィの街を歩いていた日、日本のチームがトルコに敗れてしまったんだ。(右の画像は、イタリアのテレビで見たワールド・カップでの勝利を喜ぶトルコの選手の様子。)

もし私がアマルフィ大聖堂で聖アンドレアにワールド・カップでの日本の勝利をお願いしていれば、トルコとのゲームに勝ったかもしれなかった。後悔、先に立たず。

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