ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1565年、オスマン・トルコ軍が聖ヨハネ騎士団の本拠マルタ島の攻略に失敗。(グレート・シージ)


グレート・シージにおいて攻略目標となった聖エルモ城砦

西暦1522年にオスマン・トルコ軍の侵攻を受けて当時の本拠地ロードス島エーゲ海に浮かぶ島)を失った聖ヨハネ騎士団は、西暦1530年に皇帝カール5世からマルタ島を与えられ、その島に新しい本拠地を築いていた。

とはいえ、新しい本拠地においても聖ヨハネ騎士団は安穏とはしていられなかった。地中海の十字路とも言われるマルタ島を本拠地とし、ガレー船を操ってイスラム教徒の艦船を襲う彼らの存在は、オスマン・トルコにとって許せるものではなかったんだ。例えば西暦1551年にはオスマン・トルコは名高い海賊ドラグート(トゥルグト・レイス)などを指揮官としてマルタ島・ゴゾ島に侵攻させたこともある。攻略はできなかったけどね。

そして西暦1565年5月19日、オスマン・トルコの大軍がマルタ島に上陸した。前回(西暦1551年)の侵攻の数倍の兵力、数万人もの兵力での侵攻作戦が始まったわけだ。ちなみに、この西暦1565年の上陸侵攻作戦は「グレート・シージ」と呼ばれる。(ちなみに「シージ」とは、攻囲、包囲、攻城などを意味する言葉。)

グレート・シージにおいてオスマン・トルコ軍の攻略目標となった聖エルモ城砦(マルタ島)

オスマン・トルコの大軍は、まず攻略目標をシベラス半島の先端にある聖エルモ城砦(上の画像)においた。総指揮官ムスタファ・パシャはマルタ島の古都イムディナを攻略することを説いた。でも、艦隊の指揮官である提督ピアリ・パシャの要求によって、良港グランド・ハーバーの入口を扼する聖エルモ城砦を目標とすることになったらしい。

聖ヨハネ騎士団の守りの中心となった聖アンジェロ城砦

オスマン・トルコの大軍の中に孤立した聖エルモ城砦。シベラス半島(首都ヴァレッタが建設されたのは後のこと)の高地に並べられた大砲からは、数限りない砲弾が聖エルモ城砦に撃ち込まれた。聖ヨハネ騎士団の戦士たちは傷つき、城壁は破壊された。

聖ヨハネ騎士団は、グランド・ハーバーを隔てた聖アンジェロ城砦から兵員や物資を小舟に乗せ、夜の闇にまぎれて聖エルモ城砦に送り込んでいた。(下の画像は聖アンジェロ城砦の様子。上に掲げた聖エルモ城砦の画像は、聖アンジェロ城砦から撮影したもの。)

グレート・シージにおいて聖ヨハネ騎士団の守りの中心となった聖アンジェロ城砦(マルタ島)

グレート・シージの戦いが始まって 1ヶ月あまりとなる6月23日、奮闘を続けていた聖エルモ城砦が陥落した。城砦を守っていた聖ヨハネ騎士団の騎士たちは全員が戦死し、マルタ島の地元の人々からなる兵士たち数人のみが海に飛び込んで生き延びることができた。

ちなみに、砲撃を続けるオスマン・トルコ軍の陣地に対して、聖アンジェロ城砦の大砲も砲弾を撃ち込んでいた。その砲弾の破片は、名高い海賊ドラグート(グレート・シージにおいてもオスマン・トルコ軍の指揮官の一人として参加していた)を負傷させ、間もなく彼は亡くなっている。聖エルモ城砦の陥落の数日前のことだった。

聖ヨハネ騎士団の最大の危機

聖エルモ城砦が陥落して 2ヶ月が経った8月、オスマン・トルコの大軍は攻撃目標をスリー・シティーズに置いていた。スリー・シティーズとは、聖アンジェロ城砦のあるヴィットリオーザ(旧名ビルグ)セングレア(旧名リースラ)コスピークワ(旧名バームラ)という隣接する三つの街であり、西暦1530年に聖ヨハネ騎士団がここに移って来て以後は、実質的にマルタ島の首都でもあった。

そんな8月18日、オスマン・トルコ軍のしかけた地雷によって、ヴィットリオーザの陸側の城壁が爆破され、その一部が崩壊してしまった。(下の画像は現在のヴィットリオーザの陸側の城壁の様子。グレート・シージの翌年から始まった要塞都市ヴァレッタの建設と同様に、戦いの後に強化されたものだろうけどね。)

グレート・シージにおいて聖ヨハネ騎士団とオスマン・トルコ軍の激戦の舞台となったヴィットリオーザ(旧ビルグ)の陸側の城壁(マルタ島)

城壁の崩壊した部分を目指してオスマン・トルコの兵士たちが殺到する。聖ヨハネ騎士団の守りは混乱し、立て直すことができない。スリー・シティーズの教会の鐘が鳴り響き、危機を告げていた。

聖ヨハネ騎士団の騎士団長ジャン・ド・ヴァレッテは護衛兵の槍をつかみ、城壁に駆けつけた。殺到するオスマン・トルコ兵と切り結ぶ騎士団長ヴァレッテ。その近くで砲弾が炸裂し、彼は足を負傷した。

安全な場所に退くようにと勧める周囲の人々。しかし、年老いた騎士団長は退くことを拒否。「この年齢で、友や兄弟たちに囲まれて、神のために死ぬことが出来るのは、最高の栄誉だ」。

やがて城壁からオスマン・トルコ兵が駆逐され、そこに掲げられていた彼らの軍旗が引き下ろされた。激しい戦いの一日。騎士として参加していた騎士団長ヴァレッテの甥も戦死している。多くの犠牲を出し、かろうじて聖ヨハネ騎士団は危機を乗り越えることができた。

オスマン・トルコ軍の撤退と聖ヨハネ騎士団の勝利

それから 3週間ほどが経った 9月7日、スペイン支配下のシシリアの副王の率いるキリスト教徒の援軍がマルタ島に上陸した。その翌日、戦意が低下し物資も消耗しつつあったオスマン・トルコ軍は撤退を始めた。かくしてグレート・シージは終了し、勝利を得た聖ヨハネ騎士団はマルタ島を守りぬいた。聖エルモ城砦には再び騎士団の八角十字の旗が掲げられた。

グレート・シージにおいて勝利を得た聖ヨハネ騎士団の騎士団長ヴァレッテが剣を奉納した聖ジョセフ教会(マルタ島)

勝利を聖母マリアに感謝し、騎士団長ヴァレッテはヴィットリオーザにある聖ジョセフ教会に剣や帽子を寄進したらしい。その剣や帽子は今もこの教会に残されているんだそうな。上の画像がその聖ジョセフ教会なんだけど、扉の上には聖ヨハネ騎士団ゆかりの八角十字が見えているね。

とはいえ、騎士団長ヴァレッテには勝利の美酒に酔っている余裕はなかった。西暦1566年には要塞都市ヴァレッテ(今のマルタ共和国の首都)の建設を始めている。彼はオスマン・トルコが再びマルタ島に侵攻してくると懸念していたんだ。

実際に彼らは西暦1614年にマルタ島に侵攻している。その際の騎士団長ウィニャクールはグレート・シージの生き残りの戦士だった。ちなみに、彼の鎧はヴァレッタにある騎士団長宮殿で見ることができるんだ。

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