ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1522年、スレイマン大帝指揮下のオスマン・トルコ軍が聖ヨハネ騎士団の本拠地ロードス島に侵攻した。


耐えて耐えて耐えた聖ヨハネ騎士団

ギリシャのエーゲ海に浮かぶロードス島の中心都市ロードスには、かつてこの島を本拠地としていた聖ヨハネ騎士団の騎士団長宮殿がある。その広間の様子が下の画像なんだけど、その壁には「FERT FERT FERT」というモットーが記されている。その意味は「耐える 耐える 耐える」なんだそうな。

エーゲ海に浮かぶロードス島にある聖ヨハネ騎士団の騎士団長宮殿の広間の壁には「FERT FERT FERT(耐える 耐える 耐える)」

西暦1522年、名高いスレイマン大帝が君臨するオスマン・トルコが総勢20万人とも言われる大軍をロードス島に侵攻させた。対する聖ヨハネ騎士団の戦闘員はわずかに数千人に過ぎなかった。数ヶ月に及んだ騎士たちの戦いは、まさに耐えて耐えて耐えるものだった。

オスマン・トルコ軍の侵攻

西暦1522年6月26日、オスマン・トルコのスレイマン大帝が400隻もの艦隊を以て大軍をロードス島に送り込んできた。更に7月28日にはスレイマン大帝自らが10万人もの兵士を率いて戦場に乗り込んできた。

西暦1308年に島を制圧した聖ヨハネ騎士団は、この島に本拠を置き、兵士たちを乗り込ませたガレー船をエーゲ海周辺に出撃させていた。騎士団のガレー船によって商船や軍艦を襲われていたオスマン・トルコとしては、ロードス島を攻め落とし、騎士団を打ち滅ぼすことを狙っていたんだ。

エーゲ海に浮かぶロードス島のマンドラキ港を守る聖ヨハネ騎士団時代のアギウ・ニコラウ(聖ニコラス)城砦

オスマン・トルコ軍はまずは艦隊を以て軍港を封鎖している。対する聖ヨハネ騎士団は巨大な鎖を以て敵艦隊の軍港への侵入を阻止したんだそうな。上の画像はロードスのマンドラキ港の入口を守るアギウ・ニコラウ(聖ニコラス)城砦の様子。聖ヨハネ騎士団はこのマンドラキ港を軍港として使っていたらしい。

ちなみに、聖ヨハネ騎士団がロードス島を本拠とした後の西暦1444年にマムルーク朝の支配するエジプトの艦隊が島を攻撃している。そのエジプト艦隊は敗れて撤退したんだけど、騎士団は軍港を守る為にこのアギウ・ニコラウ城砦を築いたらしい。

更には西暦1480年にメフメト2世の支配するオスマン・トルコがロードス島に侵攻している。その侵攻も失敗には終わったんだけど、オスマン・トルコ軍による更なる侵攻を懸念した聖ヨハネ騎士団はアギウ・ニコラウ城砦の守りを更に増強したんだそうな。

城壁をめぐる両軍の攻防

話がそれた。西暦1522年6月に始まったオスマン・トルコ軍の侵攻なんだけど、軍港を閉鎖する一方で、陸においては彼らはロードスの街やその城壁に対して大規模な砲撃を続けていた。のみならず、城壁の下にトンネルを掘り、そこに爆薬をしかけて破壊しようとしたらしい。その上で歩兵による突撃を繰り返したわけだ。

エーゲ海に浮かぶロードス島の城壁のアンボワーズ門

しかしながら、城壁に対するオスマン・トルコ軍の攻撃は、聖ヨハネ騎士団が想定したものだった。故に騎士団はロードスの城壁の強化・増強に努めていたんだ。例えば上の画像にあるアンボワーズ門も、砲撃に対する備えとして二つの円柱形の塔によって守りを強化している。そんなアンボワーズ門が完成したのが西暦1512年。オスマン・トルコ軍のロードス島侵攻の10年前のことだった。

その他にも聖ヨハネ騎士団はロードス島の防衛の為に様々な努力をしていた。城壁をより厚みのあるものに増強すること、城壁の周囲の空堀の幅を広げること、城門の数を減らすこと、かかる工事を行う為に技術者などを招聘すること。更にはヨーロッパ各地に散っていた騎士たちを本拠地防衛の為に召還し、キリスト教各国に援軍も求めていた。

ロードス島からの聖ヨハネ騎士団の撤退

執拗に繰り返されるオスマン・トルコの大軍による攻撃を、聖ヨハネ騎士団の騎士・兵士たちは耐え続けた。騎士団長宮殿の広間に掲げられたモットーの通りに。しかし、戦いが始まって半年が過ぎた12月20日、ロードスの街の市民たちの要求を無視できなくなった騎士団長は、敵方に休戦を求めざるをえなくなった。

その二日後の12月22日、防御側が攻撃側の条件を受け入れることが決まった。聖ヨハネ騎士団の騎士たちは12日以内にロードス島から撤退することとなった。彼らは武器や貴重品を持って立ち去ることも認められた。そして西暦1523年1月1日、武装した騎士たちは旗をなびかせて行進し、数十隻の船に分乗して島を離れていった。

エーゲ海に浮かぶロードス島の聖ヨハネ騎士団の騎士団長宮殿の前の騎士団通り(イポトン通り)

上の画像はロードスの街の騎士団通り(イポトン通り)。かつては宿舎から騎士団長宮殿に向かう聖ヨハネ騎士団の騎士たちがここを歩いていたそうな。近くには騎士団が運営していた病院の建物(今は考古学博物館)も残っている。

その考古学博物館の前には、アウワ・レディ・オブ・ザ・キャッスル教会の建物がある。かつては聖ヨハネ騎士団の教会だったそうな。でも、ロードス島がオスマン・トルコの支配下に落ちた後、イスラム教のモスクとされたらしい。オスマン・トルコとの講和の条件においては、キリスト教の教会をモスクに改めることはしないということになっていたんだけどね。

かくしてオスマン・トルコ軍と聖ヨハネ騎士団との間の半年に及ぶ戦いが終わった。でも、西暦1530年に騎士団の新しい本拠地となったマルタ島においては、西暦1565年に両軍の激戦(グレート・シージ)が起こっている。西暦1571年のレパントの海戦においては、騎士団の艦隊も参戦している。両者の戦いはまだまだ続くわけだ。

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