カスティリア・スペインの干渉とポルトガルの独立
西暦1139年、ポルトカレ伯アフォンソ・エンリケスが、オーリッケの戦いにおいてカスティリア王アルフォンソ7世の軍を撃ち破った。その後、西暦1143年にポルトカレ伯とカスティリア王との間に結ばれたサモラの条約において、ポルトガルが王国となることが認められたんだ。 しかし、ポルトガル王国の歴史は、強力な隣国カスティリア(あるいは後のスペイン)からの干渉とポルトガルの独立を守るための戦いの歴史でもあったんだ。 アヴィス朝ポルトガル王ジョアン1世西暦1382年、ポルトガル王フェルナンド1世がカスティリアと戦って敗れた。西暦1383年に結ばれたポルトガルとカスティリアとの講和条約では、ポルトガルの王位継承権者である王女ベアトリスとカスティリア王ファン1世との結婚が定められた。その年、ポルトガル王フェルナンド1世死去。カスティリア王妃となっていたベアトリスがポルトガル女王となった。 しかし、ポルトガルがカスティリアの支配下に入ることを嫌った民衆は、先王フェルナンド1世の異母弟にあたるドン・ジョアン即位を望んだ。 西暦1384年、ポルトガル女王ベアトリスの夫でもあるカスティリア王ファン1世がポルトガルに侵入。ドン・ジョアンを支持するポルトガル人との間に戦いが起こった。 西暦1385年5月、ポルトガルのコインブラで開かれた国民議会コルテスでドン・ジョアンに王位が与えられ、ジョアン1世はアヴィス朝ポルトガル王家の創始者となった。 同年8月、イギリスの支援を受けたポルトガル王ジョアン1世が、アルジェバロッタにおいてカスティリア王ファン1世を破り、アヴィス朝ポルトガル王国の独立を確保した。 西暦1388年、アルジェバロッタでの勝利を聖母マリアに感謝するジョアン1世によって、バターリャの地に勝利のサンタ・マリア修道院(下の画像)が建設された。
|
未完の「王のチャペル」
その後、ジョアン1世の王位を継承した息子ドゥアルテ1世は、勝利のサンタ・マリア修道院に「王のチャペル」を増築し始めた。しかし、その息子のマヌエル1世の代にもチャペルは完成せず、やがて工事は中断され、そのチャペルは今でも未完のままとなっている。 というわけで、その「王のチャペル」の中からは、右の画像のように青空が見えちゃうわけだ。
関連書籍参考になる・・・かもしれない本を探してみました。
All rights reserved このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。
|