ヨーロッパの歴史風景 近代・現代編




西暦 1859年、ミラノを中心とするロンバルディアが、サルディニア王国に割譲された。(イタリア)


イタリア北部の中心ミラノ

イタリアの中心と言えば頭に浮かぶのは首都ローマだよね。あるいは古都フィレンツェかな。でも、イタリア北部の中心といえば、あるいはイタリアの産業・経済の中心と言えば、ミラノだね。下の画像はそんなミラノのドゥオモ(大聖堂)の様子なんだ。

イタリア北部の街ミラノのドゥオモ(大聖堂)

西暦286年、皇帝ディオクレティアヌスはミラノを西ローマ帝国の首都と定めている。ところが、イタリア北部に位置し、ガリア(今のフランス)などにも近いミラノは、古来から蛮族の侵入にさらされてきたんだ。西暦402年にはミラノは西ゴート族に包囲され、皇帝ホノリウスは帝国の首都をラヴェンナに移している。

その後もミラノは何度も外部の勢力の手に落ちている。西暦452年にはフン族に蹂躙され、西暦539年には東ゴート族によって破壊され、西暦569年にはランゴバルド族によって征服されている。更に西暦774年にはフランク王国のカール大帝(シャルルマーニュ)に降伏している。

自治都市、そして大公国ミラノ

12世紀に入ると神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ1世(赤髯王バルバロッサ)によるイタリア侵入に苦しんだけれども、諸都市とロンバルディア同盟を結んで対抗し、やがてはミラノは自治都市としての地位を確保している。

イタリア北部の街ミラノにあるスフォルツェスコ城

しかし、西暦1277年からはヴィスコンティ家、次いで西暦1450年からは傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァに始まるスフォルツァ家というミラノ大公家の統治下に入っている。(上の画像は大公家の居城となっていたミラノのスフォルツェスコ城。)

再び外国勢力の支配下に落ちたミラノ

ところが、15世紀末からはフランス王シャルル8世ルイ12世フランソワ1世などの侵入に苦しみ、西暦1535年からはハプスブルク家のカルロス1世(皇帝カール5世)のスペインの支配下に落ちてしまった。その後、西暦1701年に始まったスペイン継承戦争の結果、オーストリアに帰属することになったんだ。

イタリア北部の街ミラノにあるダヴィンチの名画「最後の晩餐」

但し、フランス革命の後のナポレオンのイタリア遠征によってミラノはフランスに従属している。余談ながら、その際にナポレオンはサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会にあるダヴィンチの「最後の晩餐」を見たらしい。

その後、西暦1804年にフランス皇帝となったナポレオンは、西暦1805年にミラノのドゥオモ(大聖堂)でイタリア王として戴冠したそうな。しかし、皇帝ナポレオンの退位の後、西暦1815年からミラノは再びオーストリアの支配下に戻っている。

サルディニア王国に割譲されたミラノ、そしてイタリア王国

そんなわけで再びオーストリアの支配下に戻されたミラノにおいて、西暦1848年に反乱が起きている。一時期はオーストリア軍が撤退を余儀なくされたそうな。でも、結局は反乱軍は敗れ、街はオーストリア軍によって奪還されてしまった。

その後、皇帝ナポレオン3世のフランスと同盟を結んだサルディニア王国が西暦1859年にオーストリア軍を撃ち破った。その結果、ミラノを中心とするロンバルディア地方がサルディニア王国に割譲されるに至ったわけだ。

イタリアの首都ローマのヴェネツィア広場に立つイタリア王国の初代国王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世騎馬像

その2年後、統一イタリア王国が成立した。西ローマ帝国の滅亡の後、ずっと分裂していたイタリアがようやく統一されたわけだ。そんな統一イタリア王国の初代国王が、上の画像にあるヴィットリオ・エマヌエーレ2世だった。(この騎馬像はローマのヴェネツィア広場で見ることが出来る。)

とはいえ、イタリア統一にはまだ続きがある。その話はいずれ別のページであらためて ・・・ 。

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