法王クレメンス7世(ジュリオ・デ・メディチ)西暦1478年、ジューリオ・デ・メディチ誕生。イタリアはトスカナ地方の街フィレンツェの名門メディチ家の当主だった大ロレンツォの弟のジュリアーノ・デ・メディチの庶子。彼が生まれた時、既に父のジュリアーノはパッツィ家の陰謀の際に殺害されていたこともあり、誕生と同時に大ロレンツォの養子とされた。西暦1494年、メディチ家がフィレンツェから追放された後は、大ロレンツォの次男ジョヴァンニ(後の法王レオ10世)と共にヨーロッパ各地を転々とした。
西暦1513年に従兄のジョヴァンニがイタリアの中心ローマで法王レオ10世となった後、その助力によってジューリオは枢機卿となった。右の画像は、ラファエロが描いた枢機卿時代のジューリオ・デ・メディチ。 西暦1521年、法王レオ10世死去。ローマへの到着が遅れたジューリオは法王になり損ねた。 運に恵まれないかと思われたジューリオ・デ・メディチなんだけど、ところが再びチャンスがめぐってきた。西暦1523年、法王ハドリアヌス6世死去。ジューリオ・デ・メディチが法王クレメンス7世となったんだ。 |
法王クレメンス7世と皇帝カール5世
西暦1524年、フランス王フランソワ1世がイタリアに侵入。クレメンス7世は皇帝カール5世と手を切り、フランソワ1世と手を結んだ。しかし、それが裏目に出て、西暦1527年には皇帝軍によるローマ劫略が起こった。その頃、フィレンツェはメディチ家を追放している。(左の画像は、15世紀中ごろから16世紀の半ばにかけてメディチ家の人々が住んでいたフィレンツェのメディチ・リカルディ宮殿の様子。) 西暦1529年、法王クレメンス7世と皇帝カール5世とが条約を結び、その中でメディチ家のフィレンツェ復帰が保証された。 西暦1530年、皇帝カール5世の戴冠式が、ボローニャにおいてクレメンス7世の手によって行われた。やがて皇帝軍がフィレンツェを攻略し、メディチ家がフィレンツェに復帰した。 西暦1531年、アレッサンドロ・デ・メディチがフィレンツェ大公となった。彼は法王クレメンス7世の庶子との説もある。 西暦1533年、メディチ家嫡流のカトリーヌ・ド・メディチとオルレアン公アンリ(後のフランス王アンリ2世)との結婚式が、法王クレメンス7世の手によってマルセイユで行われた。 西暦1534年、法王クレメンス7世死去。
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