プラハ城で見た衛兵交代(チェコ)
中央の国チェコの首都プラハのシンボルとなっているプラハ城では、右の画像にあるような衛兵の交代を見ることが出来るんだ。衛兵の交代といえば、ロンドンのバッキンガム宮殿でもモナコの大公宮殿でもそうだけど、支配者のいる場所であることが一般的だよね。 このチェコでも同じなんだ。プラハ城の中には歴代の支配者の王宮があったということ。 プラハ城内の王宮に残るボヘミア王国の玉座
プラハ城内にある王宮には、ボヘミア王の玉座(右の画像)も残っている。この玉座に腰を下ろし、ボヘミア王は諸侯との会議を開いたんだって。そのボヘミア王国なんだけど、カレル4世として神聖ローマ皇帝ともなったルクセンブルク家のボヘミア王は、やがてハンガリーの王位をも獲得し、ボヘミア(現チェコ)とハンガリーの同君連合が成立したんだ。 ところが、その後のボヘミア王国はフス戦争で国内が荒廃し、他方で諸侯が成長して王権は衰退して行ったんだ。しかも、ルクセンブルク家が断絶してしまった。その結果、ボヘミア王国の王位は、ハプスブルク家に渡ったわけだ。 しかし、その後のボヘミアはチェコ人の大領主イジーを国王に選出し、ハプスブルク家によるボヘミア王国の支配は短期間で終わった。その後、チェコ人諸侯の一部がイジー王に反乱を起こし、ハンガリー王マーチャーシュをボヘミア王に選出したんだ。 ところが王権はまだ安定しない。15世紀の後半にはボヘミア国会は王位をポーランドのヤゲロー家に与えた。その後、ハンガリー国会もヤゲロー家のボヘミア王ヴラディスラフ2世にハンガリー王位を与えた結果、ヤゲロー家の許にボヘミアとハンガリーの同君連合が成立したわけだ。 |
モハチの戦いとハプスブルク家ポーランド、リトアニア、ボヘミア(チェコ)、ハンガリーにまたがるヤゲロー家の支配が確立し、この地域が安定するかに見えた16世紀前半、スレイマン大帝支配下のオスマン・トルコの進出が激しくなった。そして西暦1526年8月29日、スレイマン大帝の率いるオスマン・トルコ軍とヤゲロー家のボヘミア王ルドヴィーク1世(ハンガリー王ラヨシュ2世)の軍が戦い(モハチの戦い)、ボヘミア王が戦死してしまったんだ。 オスマン・トルコの脅威に対してオーストリアとの共闘を望んだボヘミアの貴族たちは、ハプスブルク家のフェルディナント1世にボヘミア王位を与えることとした。そして西暦1526年10月23日、ハプスブルク家のフェルディナント1世がボヘミア王として即位した。 それ以後、20世紀にいたるまでボヘミア(チェコ)はハプスブルク家の支配に服することとなったんだ。(下の画像は、ハプスブルク家のものとなったプラハ城。城下を流れるのはモルダウ川。)
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