ポーランドの英雄ヤン・ソビエスキオスマン・トルコとの戦いに敗れたポーランドは、西暦1672年に条約を結び、ポーランド領ウクライナなどをオスマン・トルコに割譲することを約したんだ。ところが、ポーランド国会は反発し、この条約を批准しなかった。しかも、ミハウ王が亡くなった後、オスマン・トルコとの戦いで奮闘した英雄ヤン・ソビエスキを新しいポーランド王に選出したんだ。 西暦1674年にポーランド王に即位したヤン3世(ソビエスキ)は、オスマン・トルコとの戦いを続け、フランスの仲介によってトルコとの講和を成立させたのが西暦1676年だった。 オスマン・トルコ軍による第二次ウィーン包囲
オスマン・トルコの大宰相カラ・ムスタファ・パシャは、15万とも言われる大軍を率いてトルコを出発した。西暦1683年7月のことだった。やがてオスマン・トルコの大軍は、ハプスブルク家の都ウィーンを包囲。皇帝レオポルト1世は既にウィーンを離れていた。他方、オスマン・トルコと同盟していたフランスは、西からハプスブルクに圧力をかけていた。 ウィーンを救ったポーランド王ヤン3世(ソビエスキ)巨砲を持たずにウィーンまで進撃していたオスマン・トルコ軍は、ウィーンの城壁の破壊に手間取っていた。しかし、坑道を掘って城壁の一部を占拠し、総力を以ってウィーンを占領しようとする寸前だった。そこへ姿を見せたのが、ポーランド王ヤン3世(ソビエスキ)だった。彼の率いる軍は、進撃の途中でバイエルンやオーストリアの兵士たちを併せ、大軍に膨れ上がっていた。そして西暦1683年9月12日、ウィーンの北にある丘を駆け下りたソビエスキ軍がオスマン・トルコ軍を撃破し、ウィーンが救われたというわけだ。
上の画像の右上に虹のかかった街が見えるけど、おそらくはウィーンを描いたものだろうね。(このページにある画像ニ点は、イタリアの首都ローマにあるヴァティカン博物館の中のソビエスキ王の間で撮影したもの。) |
オスマン・トルコの衰退とハプスブルク帝国の拡大オスマン・トルコの第二次ウィーン包囲に失敗した責任者として、大宰相カラ・ムスタファ・パシャが処刑されたのは、その年の12月のことだった。以後、オスマン・トルコはゆるやかに衰退していく。他方、危機を乗り切ったハプスブルク家は、長く不利な立場に追い込まれていたハンガリーからオスマン・トルコ軍を駆逐し、更に領土を広げて勢力を拡大していくことになる。
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