ヨーロッパの歴史風景 近世編




西暦1748年、フランスのモンテスキューが、三権分立を説いた「法の精神」を出版した。


三権分立 - 立法、行政、司法

国会は法律を制定し、裁判所は法律に基づいて裁判を行い、内閣は法律を執行する。ま、色々と不満がないわけじゃないけど、よくできた仕組みだよね。そんな仕組みが三権分立と言ってよいかな。

私たちは当たり前のように考えている三権分立なんだけど、その考え方が出来上がったのは、そんなに昔のことじゃないんだ。

モンテスキューによる「法の精神」と三権分立

フランス西部ボルドーのカンコンス広場に立つモンテスキュー像 近代的な三権分立の考え方を明確に打ち出したのは、18世紀のフランスの思想家モンテスキューだよね。

彼が1748年に出版した「法の精神」の中で、立法・司法・行政という三権分立がはっきりと打ち出されたわけだ。(右の画像はフランス西部ボルドーのカンコンス広場に立つモンテスキュー像。)

そして、彼の考え方は、アメリカ独立やフランス革命にも大きな影響を与えたんだ。そして、今の日本の憲法にも彼の思想は影響している。

但し、議院内閣制を採る日本やイギリスの場合は、三権分立は些か変則的にはなっているけどね。

モンテスキュー男爵はフランスの法服貴族の生まれ

モンテスキューは西暦1689年にボルドー近くのラブレッド村で生まれた。本名をシャルル・ルイ・ドスコンダという。名門の法服貴族の家だった。法律を勉強した彼は、やがて弁護士となった。

その後、西暦1716年に伯父が亡くなり、モンテスキュー男爵の爵位・領地とボルドー高等法院副院長の職を相続。ところが、その10年後、つまり37歳の時には引退。それからは悠々自適の生活だ。

といって遊んで暮らしていたわけじゃない。引退前から執筆活動をしていた彼は、「ペルシャ人の手紙」「ローマ人盛衰原因論」などによって、名の知られた著述家になっていた。そんな高名な著述家となっていたモンテスキューは、ロワール川のほとりのシュノンソー城などにも出入りしていた。デュパン夫人のサロンに参加していたらしい。

この時期のモンテスキューはイタリアを旅したこともあったらしい。彼はメディチ家の最後のトスカナ大公ジャン・ガストーネの統治下のフィレンツェについてコメントしているんだけど、当時のフィレンツェは極めて悲惨な状況にあったらしい。かつてのルネサンス華やかなりし頃の面影は失われていたみたい。

そして西暦1748年、モンテスキューの「法の精神」がスイスのジュネーヴで出版された。しかも、匿名で。というのも、当時のフランス社会は絶対主義の時代だったこともあり、三権分立を基調とする彼の考え方はまさに危険思想だったから。その結果、故国フランスではなく、ジュネーヴで、しかも名を伏せて出版するしかなかったんだ。

モンテスキューの三権分立に影響を与えた
イギリスの議会政治

モンテスキューは、イギリスに渡って勉強をしたことがあるんだそうな。当時、既に清教徒革命名誉革命を経て形成されつつあったイギリスの議会政治が、モンテスキューの三権分立論に強い影響を与えたらしい。

イギリスの首都ロンドンの国会議事堂とビッグ・ベン

上の画像は、イギリスの首都ロンドンにある国会議事堂とビッグ・ベン。モンテスキューがロンドンにいた頃に眺めた国会議事堂は1834年に焼失してしまったから、今では見ることは出来ないんだけどね。

「法の精神」出版後のモンテスキュー

「法の精神」が出版されて7年後の西暦1755年、モンテスキューはフランスの首都パリで亡くなった。でも、彼の「法の精神」は今後も受け継がれていくんだろうね。

ついでに、モンテスキューが生まれて育ったシャトー・ド・ラブレッドという15世紀の城館も残されている。今ではボルドー近くの観光名所になっているんだそうな。残念ながら、私はそのシャトーへ行ったことがないんだ。いつかボルドーのワインを楽しみながら、そのモンテスキューの城館を訪ねてみたいもんだ。

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